施設名 | 木津川渡船場 地図 |
所在地 | 住之江区平林北1-1 |
TEL | 06-6551-3143 |
詳細情報 | |
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施設名 | 木津川渡船場 地図 |
所在地 | 大正区船町1-1-4 |
TEL | 06-6551-3143 |
詳細情報 | |
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施設名 | 雙松岡碑 地図 |
所在地 | 福島区福島1-1 |
TEL | |
詳細情報 | 雙松岡は幕末の文久元年(1861年)田蓑橋北詰西側に松本奎堂、松林飯山、岡鹿門の3名が開いた漢学塾で、彼らの名1字づつとって塾名とした。尊皇攘夷を鼓吹し、倒幕運動家の集合場所という疑いから、大坂町奉行所にも危険視され、文久2年、わずか半年で閉鎖された。雙松岡碑は・ |
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施設名 | 藤井藍田・玉生堂跡 地図 |
所在地 | 西区南堀江3−1 高台橋公園 |
TEL | |
詳細情報 | |
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施設名 | 酒君塚古墳 地図 |
所在地 | 東住吉区鷹合2-5 |
TEL | |
詳細情報 | 日本書紀の仁徳天皇41年、43年の条に「依網屯倉阿弭古(よさみのみやけあびこ)が不思議な鳥を捕まえて天皇にさしあげたところ、天皇はその鳥が鷹であることを知られ百済王の一族である酒君に命じて鷹を養わせた。」とあります。現在、酒君塚公園にある酒君塚碑は酒君の墓であ |
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施設名 | 鳴戸川改修の碑 地図 |
所在地 | 東住吉区今川4-23 |
TEL | |
詳細情報 | 戦後、東住吉区は住宅地として著しく発展し、昭和24年から駒川、今川、鳴戸川、平野川を改修するとともに、合わせて下水工事が行われました。昭和29年に今川の改修工事が完成し、続いて施工された鳴戸川の改修工事の完成(昭和36年)を記念して、今川福祉会館の前に石碑が立 |
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施設名 | 覚林寺の井戸 地図 |
所在地 | 東住吉区湯里4-16 |
TEL | |
詳細情報 | 現在の湯里は、昔温泉が出たので、この名がつけられたといいます。「摂津郡談」には「里の湯四天王寺茶臼山の南にあり世俗のいうこの所にむかし温泉あり。故に湯屋の里と伝ういつの世か退転せり。その旧泉を慕い井を掘らしめ湯谷井と称す」とあり、覚林寺の井戸がこれだと伝えら |
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施設名 | 模擬原爆投下跡 地図 |
所在地 | 東住吉区田辺1-6 |
TEL | |
詳細情報 | 1945年7月26日午前9時26分、B29からこの地に「模擬原爆」が投下され、多数の方が罹災されました。2001年、遺族の手で慰霊碑が建立されました。 |
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施設名 | 平等橋からのながめ 地図 |
所在地 | 東住吉区中野3-10 南百済公園北側 |
TEL | |
詳細情報 | 桜の咲く頃、平等橋からの北のながめは、桜と桜が折り重なるように咲いており、まるで桜のトンネルの様にとてもきれいです。 |
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施設名 | はり道の道標 地図 |
所在地 | 東住吉区針中野3-2 |
TEL | |
詳細情報 | 中野の鍼灸(しんきゅう)は、昔より近郷に知られ宝暦13年発行の摂州平野大絵図にも中野村小児鍼師としるされています。まちのあちこちに道標があり、その指す方向に進んでいくと木造の古い建物に行き当たります。遠方からもたくさんの親子づれが訪れています。 |
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施設名 | 今川のせせらぎ 地図 |
所在地 | 東住吉区湯里6-8 湯里小学校東側 |
TEL | |
詳細情報 | 区の中心を南北に流れる今川は、平野下水道処理場できれいに浄化した水の放流によって清らかな流れになりました。岩や石で渓流をつくり、芝生やクスノキ、ツツジなど緑も豊富で、区民の憩いの場として親しまれています。 |
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施設名 | すむじ寺跡 地図 |
所在地 | 東住吉区住道矢田8-3 |
TEL | |
詳細情報 | 奈良時代、藤原不比等(ふじわらふひと)が須牟地に氏寺として建立したとみられる寺院の方形土壇や塔心礎などがここから発見され、かなりの伽藍をもつ寺院があったと思われます。歴史のロマンを訪ね歩くにはうってつけですね。 |
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施設名 | 桑津今川堤跡 地図 |
所在地 | 東住吉区中野3-5 今川緑道 |
TEL | |
詳細情報 | 江戸時代の今川堤には櫨(はぜ)の木が植えられ、4kmにわたって櫨堤が連なっていました。紅葉の季節になると、大勢の人々が訪れて秋の一日を楽しみ、その風景は浪速名所として尻無川の櫨堤と並び称されるものでした。 |
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施設名 | 川口居留地跡 地図 |
所在地 | |
TEL | |
詳細情報 | |
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施設名 | 織田作之助来遊の地 地図 |
所在地 | 阿倍野区丸山通1 大阪キリスト教短大北門内 |
TEL | |
詳細情報 | |
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施設名 | 経塚 地図 |
所在地 | 阿倍野区阿倍野元町15 晴明丘公園内 |
TEL | |
詳細情報 | |
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施設名 | 播磨塚と小町塚 地図 |
所在地 | 阿倍野区王子町4-3 |
TEL | |
詳細情報 | |
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施設名 | 岸の五本松 地図 |
所在地 | 阿倍野区北畠2-4 |
TEL | |
詳細情報 | |
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施設名 | 伝北畠顕家の墓 地図 |
所在地 | 阿倍野区王子町3-8 |
TEL | |
詳細情報 | |
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施設名 | 丸山古墳 地図 |
所在地 | 阿倍野区丸山通2-6・7・8 |
TEL | |
詳細情報 | |
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施設名 | 加賀屋新田会所・加賀屋緑地 地図 |
所在地 | 住之江区南加賀屋4-8 |
TEL | 06-6683-8151 |
詳細情報 | 延享2年(1745年)、加賀屋甚兵衛によって干拓された。この埋立ては、その後数回にわけて北へ北へと拡張された。これらの民間資力による開拓事業は、幕府の崩壊で終るが、その間の開拓総面積は、今日の大阪市域のほぼ1/3にもあたるものである。なお当地の会所建築は宝暦4年・ |
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施設名 | 霰松原 地図 |
所在地 | 住之江区安立2-11 |
TEL | |
詳細情報 | この付近は江戸時代中期まで、海岸線であった。そして白砂青松の名勝地で、松風が霰を吹きつけるように響いたのでこの名があるという。その有様は万葉集にも収録されているが、江戸時代に入って大和川付け替え工事や新田開発により、海岸線が移動し景観が一変してしまった。 |
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施設名 | 剣先船の碑 地図 |
所在地 | 住之江区浜口西1-7 |
TEL | |
詳細情報 | 剣先船は、江戸時代の大阪の川船のひとつで、荷物運搬船として活躍した。宝暦二年(1752年)の調べでは、三百隻ほど運航していたと伝えられている。住之江でも大和川や十三間川の開削と同時に運航がはじめられた。船首が刀のようにとがっていたことから剣先船と呼ばれたとい |
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施設名 | 住吉高燈籠 地図 |
所在地 | 住之江区浜口西1-1 |
TEL | |
詳細情報 | わが国最初の灯台として、鎌倉時代末の創建というが不詳。もとは、現地から西約200mのところ(顕彰碑が立っている)にあったが、台風で倒壊したり道路工事で撤去されるなどで当地へ移築された。当時は海岸近くにあたり、点灯すると十分灯台の役目を果たしたという。 |
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施設名 | 井路川水路顕彰碑 地図 |
所在地 | 住之江区緑木1 南港通緑木1丁目交差点西北角 |
TEL | |
詳細情報 | この碑が建てられている付近は、昔は新田と呼ばれた広大な干拓地の一角であった。江戸時代以来、新田のいたるところで水利や運搬のため井路川という水路が掘られ、昭和30年頃までは豊かな農産物を積んだ小船が行き交っていた。この井路川は、新田の動脈でもありまた象徴でも |
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施設名 | 船町渡船場 地図 |
所在地 | 大正区鶴町1-16-61 |
TEL | 06-6551-6158 |
詳細情報 | |
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施設名 | 船町渡船場 地図 |
所在地 | 大正区船町1-3-117 |
TEL | 06-6551-6158 |
詳細情報 | |
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施設名 | 木津川飛行場跡の碑 地図 |
所在地 | 大正区船町1-3 |
TEL | |
詳細情報 | 我が国最初期の本格的な民間飛行場で、昭和4年には東京−大阪−福岡を結ぶ定期旅客便の運行が開始され、近代大阪の玄関口として重要な役割を果たしました。船町1丁目の新木津川大橋の上り口にその碑が建っています。 |
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施設名 | 千本松渡船場 地図 |
所在地 | 大正区南恩加島1-11-1 |
TEL | 06-6551-6156 |
詳細情報 | |
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施設名 | 千本松渡船場 地図 |
所在地 | 西成区南津守2丁目4-88 |
TEL | 06-6651-6156 |
詳細情報 | 大正区南恩加島1まで |
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施設名 | 津守新田会所跡 地図 |
所在地 | 西成区津守3-1 津守小学校内 |
TEL | |
詳細情報 | 碑は津守小学校内の北西角にあり、大阪市の建立で「本校庭の位置には、江戸時代津守新田会所があり、新田地主白山氏の庭園は向月庭といわれ、大阪の代表的名園であった」と記されている。 |
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施設名 | 浅香中央公園 地図 |
所在地 | 住吉区浅香1丁目 |
TEL | |
詳細情報 | 平成10年4月末には全域が開設され、区内で2番目の広さを持つ公園となりました。ここには、ナイター設備を備えたグランドや樹木・水の流れを配した芝生広場、プロムナードが設けられています。また、舞台の周りの人口池には、区の花「かきつばた」も植えられ、子どもからおと |
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施設名 | 紀州街道 地図 |
所在地 | 住吉区東粉浜1丁目〜3丁目に至る |
TEL | |
詳細情報 | 織田信長の時代、石山合戦のころよりできた街道。堺筋から日本橋、名呉橋を経て天下茶屋、天神の森、住吉大社石鳥居正面に至って、さらに安立町から大和橋を渡り堺に出る街道でした。今では阪堺線の路面電車が走り、独特のまちの雰囲気を醸し出しています。 |
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施設名 | 住吉行宮跡 地図 |
所在地 | 住吉区墨江2丁目 |
TEL | |
詳細情報 | 南朝の後村上天皇は、正平6年(1351)、北朝を奉じる足利義詮が降伏を申し出たので、翌年奈良県賀名生から住吉大社宮司津守国夏邸内の正印殿に移り、ここを行宮(行幸時の仮の宮居)としました。そのうち義詮は勢力をもり返して天皇の軍は敗れ、ふたたび賀名生に戻りました。後・ |
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施設名 | 熊野街道 地図 |
所在地 | 住吉区上町台地を縦断 |
TEL | |
詳細情報 | 熊野街道は、和歌山県熊野本宮への参詣道で、平安時代から鎌倉時代にかけて「蟻の熊野詣」といわれる程、多くの人々の往来で賑わいました。 京都から淀川を舟で下り、八軒家(中央区天満橋京町)に上陸した人々は上町台地を縦断、途中所在する「熊野九十九王子」(住吉区・ |
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施設名 | 一休和尚の牀菜庵の碑 地図 |
所在地 | 住吉区上住吉2丁目 上住吉西公園内 |
TEL | |
詳細情報 | 一休和尚(1394〜1481)が、晩年仮棲したところです。一休は後小松天皇の落胤と伝えられ、天衣無縫・反骨で終始し京都・奈良・堺などに移り住みました。文明元年(1469)奈良から堺に来て、住吉に居住していました。翌2年、堺の豪商尾和宗臨(大徳寺伽藍再興に尽力した)が、ここ・ |
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施設名 | 細江川のせせらぎ 地図 |
所在地 | 住吉区南住吉2丁目 |
TEL | |
詳細情報 | 細江川は、古代には住吉津の入り江に注いでいた川で「万葉集」等にも歌われた歴史的背景を有しています。上流から約600mの区間において、せせらぎが復活しています。「万葉ゾーン」「遊びのゾーン」「四季のゾーン」を設け、ゆかりの歌碑を配し、かきつばたも見られるように |
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施設名 | 瓜破遺跡 地図 |
所在地 | 平野区瓜破東4-4 |
TEL | |
詳細情報 | 瓜破遺跡は、大和川の川床を中心とする付近一帯の弥生時代の代表的な遺跡で、前期から後期にわたる土器をはじめ、石器、木器、銅鏃などが出土している。また、中国の王莽時代(紀元8〜22年)の貨泉(銅貨)が出土したことは、中国文化の影響を物語るものである。現在は、遺跡案・ |
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施設名 | 真田幸村休息所跡 地図 |
所在地 | 平野区長吉長原4-8 |
TEL | |
詳細情報 | 戦国の武将真田幸村は、大坂夏の陣のおり、南河内誉田方面において徳川方の伊達正宗軍と一戦を交えた後、古市街道を経て大坂城へ帰城する途中、この地にて休憩し、志紀長吉神社へ戦勝を祈願すると共に、軍刀を一振りと六文銭の軍旗を奉納した。現在、休息所跡には自然石が建 |
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施設名 | 花塚山古墳 地図 |
所在地 | 平野区瓜破東4-4 瓜破霊園内 |
TEL | |
詳細情報 | 花塚山古墳は、上町台地よりひとつ東方の洪積台地端部に位置する瓜破古墳群にある。5世紀ごろ築造の古墳で、直径約25m、高さ2.5mあり、幅約5mの周濠があったと推定され、最近の測量調査では方墳であった可能性も指摘されている。発掘調査が行われていないので、内部構造はわ |
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施設名 | 長原高廻り古墳群 地図 |
所在地 | 平野区長吉長原2-14 なみはや公園内 |
TEL | |
詳細情報 | 昭和62年(1987年)、この地から5世紀前半の円墳と方墳が発見された。墳丘は削りとられていたが、堀内から出土した船形埴輪・家形埴輪など33点の埴輪は国の重要文化財に指定されている。特に、船形埴輪は1989年、大阪市制100周年を記念して「古代船なみはや」として復元され、 |
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施設名 | 芭蕉句碑 地図 |
所在地 | 住之江区浜口東1-1住吉公園内 |
TEL | |
詳細情報 | 松尾芭蕉が元禄7年(1694年)の9月12日夜、住吉大社の「宝の市」神事にお参りし、社頭で升を売る店を見て詠んだといわれる、「升買って 分別かわる 月見かな」の句が刻まれている。芭蕉はこの句を詠んだ翌月に、大阪で亡くなった。この句碑は、元治元年(1864年)秋、門流の |
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施設名 | 六道の辻閻魔地蔵 地図 |
所在地 | 住吉区東粉浜3丁目 |
TEL | |
詳細情報 | 戦国時代、天文7年(1538)の作と伝えられています。地蔵が閻魔大王に化身したもので、難波の浜から背負って運んで来たところ、この地で急に重くなり、一歩も前へ進めなくなったといわれています。冥土の苦界六道の辻が、今では1本増えて七道の辻となっています。閻魔は地蔵菩 |
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施設名 | 帝塚山古墳 地図 |
所在地 | 住吉区帝塚山西2丁目 |
TEL | |
詳細情報 | 市内に残る四古墳(茶臼山古墳=天王寺区、御勝山古墳=生野区、聖天山古墳=阿倍野区、帝塚山古墳)の1つで、5世紀初頭の前方後円墳です。区の北部の高台にあり、大和朝廷に高官として仕え、この付近に居宅があった豪族大伴金村の墓という説もあります。現存している塚は、前 |
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施設名 | 万代池公園 地図 |
所在地 | 住吉区万代3丁目 |
TEL | |
詳細情報 | 熊野街道が池の西端に接して通っています上町台地の浸食谷をせき止めてつくられた池と思われます。明治の終りころまで、潅漑池として利用されていました。昔は付近に人家はほとんどなく、魔物が住むと恐れられていましたが、聖徳太子が曼陀羅経をあげてしずめたことから「ま |
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施設名 | こつま南瓜塚 地図 |
所在地 | 西成区玉出西2-1 生根神社内 |
TEL | |
詳細情報 | 生根神社にある「こつま南瓜塚」は、同神社の宮司さんによると、勝間村の名産のひとつに「勝間南瓜」があり、冬場の非常食や中風よけのまじないとして、勝間商人によって売られていた。塚ができた謂れは、江戸時代に飢饉があり、その時、勝間南瓜を食べて、人々は飢えをしの |
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施設名 | 天下茶屋跡 地図 |
所在地 | 西成区岸里東2-10-9 |
TEL | |
詳細情報 | 今から400年余り昔、太閤秀吉が住吉大社参拝や堺への往来の際、ここの茶店で休息、茶の湯を楽しみ付近の風景を賞したことからこの茶店を天下茶屋と呼ぶようになった。その由来を示す建物(芽木家)は戦災で焼失し、現在は天下茶屋跡として、くすのきの大樹と土蔵、石像だけ・ |
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施設名 | 松虫塚 地図 |
所在地 | 阿倍野区松虫通1-11 |
TEL | |
詳細情報 | |
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施設名 | もと熊野街道 地図 |
所在地 | 阿倍野区阿倍野元町9 |
TEL | |
詳細情報 | |
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施設名 | 馬車鉄道跡 地図 |
所在地 | 阿倍野区阿倍野元町 東天下茶屋駅内 |
TEL | |
詳細情報 | |
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施設名 | 梶井基次郎旧居跡 地図 |
所在地 | 阿倍野区王子町2-17 |
TEL | |
詳細情報 | ホームページの人物より |
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施設名 | 苔山龍王 地図 |
所在地 | 西成区天下茶屋1-32 |
TEL | |
詳細情報 | 織田信長時代の土佐藩の家老夫婦がこの地で返り討ちに合い、後に豊臣、徳川の夏の陣・冬の陣の戦に天下茶屋一帯が戦場となり、多くの霊がさまよい、徳川家光の慶安3年正月にこの碑が建てられた。 |
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施設名 | 波切不動尊 地図 |
所在地 | 西成区聖天下1-6 |
TEL | |
詳細情報 | 水かけ不動明王とも呼ばれている。昭和14年に現在の松1丁目で発掘され、大きさは約150センチメートル、同年西宝寺のそばに祀られた。戦時中、数度の空襲で周囲は焼失したが、不動明王は難をまぬがれたことなどで、日ごと信仰者が増え、願いごとをかなえてくれる不動さんとし |
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施設名 | 伊藤静雄文学碑 地図 |
所在地 | 阿倍野区松虫通2-9 松虫ポケットパーク |
TEL | |
詳細情報 | ホームページの人物より |
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施設名 | 天彩画塾跡 地図 |
所在地 | 阿倍野区松崎町3 松崎公園内 |
TEL | |
詳細情報 | |
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施設名 | 桃ケ池 地図 |
所在地 | 阿倍野区桃ケ池町1 |
TEL | |
詳細情報 | |
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施設名 | 坂上廣野麿屋敷跡 地図 |
所在地 | 平野区平野本町3-4 |
TEL | |
詳細情報 | 平安朝の初め(800年頃)蝦夷との戦いに武功をたてた坂上田村麿の第2子廣野麿が、朝廷から杭全庄を賜わり、この地を領有した。廣野麿は、嵯峨、淳和の二帝につかえ、右兵衛佐に任じられこの地に永住し、天長5年(828年)3月9日に亡くなった。坂上家は以来、代々民部を名乗り、こ |
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施設名 | 含翠堂跡 地図 |
所在地 | 平野区平野宮町2-9 |
TEL | |
詳細情報 | 平野七名家の1人土橋友直らによって享保2年(1717年)に創設された大阪初の民間学問所である。経営は、すべて同志の寄附金とその運用で維持され、飢饉の際に備えて積み立てを行い、たびたび窮民を救済したことは、他の学塾に見られない特色である。明治5年(1872年)新学制公布・ |
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施設名 | 平野の黄金水 地図 |
所在地 | 平野区平野東2-11 平野公園内 |
TEL | |
詳細情報 | 平野はもともと低湿な土地柄でそのため井戸水の水質が悪く、そのままでは飲用に耐えなかった。しかし、この井戸は良質の水に恵まれ、多くの住民に利用された。坂上廣野麿により荘園として開かれて以来上水道が普及するまでは、付近住民にとり貴重な飲料水であった。また、平 |
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施設名 | 平野郷樋尻口門 地図 |
所在地 | 平野区平野東2-11 平野公園内 |
TEL | |
詳細情報 | 戦国時代、平野は堺とならぶ自治都市であった。郷内の安全のため集落のまわりを濠で囲み(一般に「環濠集落」と呼ばれる)郷への出入りは13ヶ所に設けられた木戸口を使って行われた。それぞれに門や地蔵堂があって平野十三口と呼ばれ、この樋之尻口門もその中のひとつである。 |
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施設名 | 奥田邸 地図 |
所在地 | 平野区加美鞍作1-8-5 |
TEL | |
詳細情報 | 奥田家は、代々鞍作の庄屋をつとめていた。現在の屋敷の建築年代は明らかでないが、手法から江戸時代初期の豪農の家と考えられる。市内に残る数少ない民家である。 敷地をはじめ、主屋・座敷・長屋門・納屋など全体としての姿を知ることができる貴重なもので、国の重要文化 |
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施設名 | 平野環濠跡 地図 |
所在地 | 平野区平野宮町2-1 杭全神社東側 |
TEL | |
詳細情報 | 平野の環濠は、いつ頃掘られたものかは不明であるが戦国時代の動乱の時代に自衛と灌漑、排水用あるいは洪水の調節池としての役割を持ってつくられたと考えられる。 |
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施設名 | 坂上廣野麿の墓 地図 |
所在地 | 平野区平野市町1-8 坂上公園内 |
TEL | |
詳細情報 | 平安朝の初め(800年頃)蝦夷との戦いに武功をたてた坂上田村麿の第2子廣野麿が朝廷から杭全庄を賜り、この地を領有した。廣野麿は嵯峨、淳和の二帝につかえ、右兵衛佐に任じられこの地に永住し、天長5年(828年)3月9日に亡くなった。また、坂上家から分かれた泥堂氏(のち井上・ |
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施設名 | 畠山政長の墓 地図 |
所在地 | 平野区加美正覚寺2-6 |
TEL | |
詳細情報 | 畠山政長は、室町幕府管領(将軍を補佐し政務を統括する職名)で河内・紀伊・越中の守護をも兼ねていた。管領畠山持国のとき、その家督相続をめぐり持国実子義就と甥・政長との間に争いが起った(応仁の乱の一因)。政長は将軍足利義材(義稙)と共に正覚寺に本陣をおき、義就と対 |
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施設名 | 正覚廃寺(東之坊) 地図 |
所在地 | 平野区加美正覚寺2-8-5 |
TEL | |
詳細情報 | 正覚寺は成等山と号し、淳和天皇天長2年(825年)弘法大師の開創で、境内四町四方にわたり観音堂、金堂、講堂、六時堂のほか、山門廻廊など壮大で美しく、東之坊ほか五坊を有する大寺院であった。大師作十一面観音を本尊として(現在当坊の本尊)幅広い層の人々の信仰を集め、楠 |
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施設名 | 楠正長史跡公園 地図 |
所在地 | 生野区巽南4-2 |
TEL | |
詳細情報 | |
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施設名 | 天保山ハーバービレッジ 地図 |
所在地 | 港区 |
TEL | |
詳細情報 | 世界最大級の水族館「海遊館」をはじめ、天保山マーケットプレース、ホテルシーガルてんぽーざん大阪、大観覧車、サントリーミュージアム[天保山]などの施設があり、大阪を代表する観光スポットとなっています。 |
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施設名 | 新夕陽ケ丘 地図 |
所在地 | 此花区北港緑地2 |
TEL | |
詳細情報 | 舞洲の小高い丘の頂上に白い屋根の展望台がある。舞洲や大阪湾ベイエリアが見渡せる。空気の澄んだ日は遠く、淡路島や明石海峡大橋も見える。また丘からは日本夕陽百景にも選ばれたすばらしい夕日を見ることができる。 |
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施設名 | 天保山大橋 地図 |
所在地 | 港区 |
TEL | |
詳細情報 | 安治川河口に架かる天保山大橋は、大型船舶が航行するため桁下は45m主塔の高さ152mの日本有数の斜張橋で、保守点検などの維持管理のため主塔にエレベータが設置されているわが国はもちろん世界的にも珍しい橋です。 |
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施設名 | 天保山 地図 |
所在地 | 港区 |
TEL | |
詳細情報 | 天保2年(1831年)に行われたおおがかりな川ざらえによって積み上げられた土砂が、高さ20mの小山となり桜や松が植えられ「浪華の新名所」として当時はたいへん賑わいを見せました。その後築港工事などでその姿はなくなり、現在は標高4.53mの「日本一低い山」として知られて・ |
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施設名 | 西村捨三翁の像 地図 |
所在地 | 港区 |
TEL | |
詳細情報 | 大阪港の開港と発展のために尽くした、大阪築港事務所初代所長の西村捨三翁の功績をたたえるために建てられました。現在は大阪港を見守るように天保山公園に設置されています。 |
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施設名 | 天保山渡船場 地図 |
所在地 | 此花区桜島3-10−34 |
TEL | 06-6571-5919 |
詳細情報 | 明治後期につくられた渡しで、此花区桜島と港区天保山(港区築港3丁目)を結んでいる。区内の安治川沿いには多いときで10ヵ所の渡しがあったが、現在は天保山だけである。現在渡し船は、毎日午前6時ごろから午後8時ごろまで、15分から30分おきに運航されている。 |
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施設名 | 天保山渡船場 地図 |
所在地 | 港区築港3-2-25 |
TEL | 06-6571-5919 |
詳細情報 | |
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施設名 | 港大橋 地図 |
所在地 | 港区 |
TEL | |
詳細情報 | 明石、紀淡の両海峡から大阪港を目指す船舶の目印にもなっている朱塗りの港大橋は、海を越えて南港と築港地区を結んでいます。桁下は51mあり6万トン級のコンテナ船が自由に橋下を航行しています。 |
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施設名 | 千歳渡船場 地図 |
所在地 | 大正区鶴町3-1-69 |
TEL | 06-6551-6494 |
詳細情報 | |
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施設名 | 千歳渡船場 地図 |
所在地 | 大正区北恩加島2-5-55 |
TEL | 06-6551-6494 |
詳細情報 | |
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施設名 | 落合下渡船場 地図 |
所在地 | 西成区津守2丁目8−21 |
TEL | 06-6551-6087 |
詳細情報 | 大正区平尾1まで |
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施設名 | 落合下渡船場 地図 |
所在地 | 大正区平尾1-1-26 |
TEL | 06-6551-6087 |
詳細情報 | |
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施設名 | 甚兵衛渡船場 地図 |
所在地 | 大正区泉尾7-13-32 |
TEL | 06-6551-6085 |
詳細情報 | |
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施設名 | 落合上渡船場 地図 |
所在地 | 西成区北津守4丁目15−1 |
TEL | 06-6551-6086 |
詳細情報 | 大正区千島1まで |
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施設名 | 落合上渡船場 地図 |
所在地 | 大正区千島1-29-41 |
TEL | 06-6551-6086 |
詳細情報 | |
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施設名 | 「海の玄関口」の碑 地図 |
所在地 | 浪速区浪速西2-14 |
TEL | |
詳細情報 | 全国有数の皮革の集散地・太鼓づくりのまちとして300年を超える歴史を有する浪速地区(旧渡辺村)を正しく伝えるために、皮革・太鼓の歴史や文化をテーマにまちづくりを進める「人権・太鼓ロード」建設計画のひとつのモニュメントとしてつくられました。江戸時代中期(約 |
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施設名 | 太鼓屋又兵衛屋敷跡(浪速玉姫公園) 地図 |
所在地 | 浪速区浪速東3-13 |
TEL | |
詳細情報 | 「太鼓屋又兵衛」は江戸時代を通じ太鼓の全国ブランドとして知られており、「太鼓屋」の屋号は1616年、大阪城の「時太鼓」を作った渡辺村の平八が、その功労のよって「太鼓屋」の屋号を許されたことに始まると伝えられています。「太鼓屋又兵衛」の名は、少なくとも17 |
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施設名 | 甚兵衛渡船場 地図 |
所在地 | 港区福崎1-3-50 |
TEL | 06-6551-6085 |
詳細情報 | 昭和初期まで、渡船は重要な交通の手段でした。その後道路整備や交通事情の変化でほとんどがその姿を消していく中、区内の「天保山渡船(安治川)」と「甚兵衛渡船(尻無川)」は今もなお多くの方々に利用されています。 |
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施設名 | 此花今昔物語・大阪浪漫 地図 |
所在地 | 此花区島屋5-1 |
TEL | |
詳細情報 | USJ東隣にある住友金属工業南側壁面(長さ約450m)を利用して、縦1m、横2mの巨大写真が展示されている。此花区や大阪市の歴史、観光スポット、子どもたちの描く此花区の未来など約140点を映画のフィルムを見るような感じで楽しめ、ゆっくり歩いて見るのがお勧めである |
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施設名 | オーク200 地図 |
所在地 | 港区 |
TEL | |
詳細情報 | 高さ200mの超高層ビル内に配置したホテルと、167mの超高層マンションの他、ショッピング・グルメ街、各種文化学習施設、医療施設、プールやボウリング場などバラエティに富んだ複合施設となっています。 |
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施設名 | 尻無川水門 地図 |
所在地 | 港区 |
TEL | |
詳細情報 | 大阪市はジェーン台風・第二室戸台風による高潮で大きな被害を受けました。そのため昭和45年(1970年)オランダのレク川の水門をモデルに、台風時に海水の進入を防ぐ安治川大水門・尻無川大水門が建設されました。 |
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施設名 | 近代紡績工業発祥の地の記念碑 地図 |
所在地 | 大正区三軒家東2-12 |
TEL | |
詳細情報 | 明治16年、大阪紡績が三軒家村で操業を始めました。昭和35年大阪市によって、この工場があった三軒家公園の南西隅に記念碑が建てられました。 |
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施設名 | 「安政大津波」の碑 地図 |
所在地 | 浪速区幸町3-9 |
TEL | |
詳細情報 | 安政元年(1854年)11月の大地震による大津波の被害は甚大でした。その模様を記録し後世に対する戒めを伝えるのが、大正橋東詰(北側)にある安政2年(1855年)7月建立の安政大津波碑です。そこには大地震が起きた場合には、必ず津波が襲うものと心得るべきだと教訓が書かれ |
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施設名 | 淀川距離標左岸0.0K地点 地図 |
所在地 | 此花区常吉1丁目付近 |
TEL | |
詳細情報 | 淀川と大阪湾の境界地点のことで、琵琶湖から75km、淀川水系源の表示がある高時川最上流から170kmのゴールを示す地点を「淀川距離標 左岸0.0k」地点といいます。 |
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施設名 | 常吉新田の碑 地図 |
所在地 | 此花区酉島5-11 |
TEL | |
詳細情報 | 此花区内における江戸時代最後の新田開発請負人、常吉庄左衛門の没後50回忌にあたる明治40年に建立された。併せて安政元年(1854年)の津波(碑面には安政3年となっている)による犠牲者を祀っている。この辺りは、大正期ころまで美しい松が生い茂り「千本松」といわれていた。 |
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施設名 | 矢倉緑地 地図 |
所在地 | 西淀川区西島2-1 |
TEL | |
詳細情報 | |
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施設名 | 外島保養院記念碑 地図 |
所在地 | 西淀川区中島2丁目10番先 |
TEL | |
詳細情報 | 外島保養院記念碑 (中島2-10)「外島保養院」は明治42年(1909年)に開設されたハンセン病療養所です。当初、敷地2万坪、定員300名の規模でした。なおも増設工事が行われていた、昭和9年(1934年)9月21日の室戸台風により入所者173名・職員3名職員家族11名、計187名の尊い命が・ |
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施設名 | ガソリンカー慰霊碑 地図 |
所在地 | 此花区島屋6-1 |
TEL | |
詳細情報 | 碑面に「南無阿弥陀仏、慰霊碑189名追善菩提、昭和15年1月29日」とある。中国大陸に戦火が拡がるなかで、昭和15年1月産業戦士といわれた働く人たち約千人を乗せた3両のガソリンカ−の最後尾の車両が脱線転覆・炎上した時の犠牲者を慰霊した碑である。 |
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施設名 | 桜堤の碑 地図 |
所在地 | 此花区春日出中3-1(春日出共同墓地内) |
TEL | |
詳細情報 | 春日出新田は数次にわたって干拓されたが当時、「桜堤」を築いて浸水を防いでいた。その後、堤が田畑になってしまっていたのを開拓を引き継いだ清海安五郎が、あらためて津波などに備えて築堤した。その経緯を記した記念碑であり、明治19年に建立された。 |
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施設名 | 市岡新田会所跡 地図 |
所在地 | 港区 |
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詳細情報 | 元禄時代(1700年頃)港区は新しい開拓地で、各所に新田が作られました。中でも「市岡新田」は大阪湾沿岸では最大の新田でした。波除公園内にある「市岡新田会所跡」の碑は、地主が新田の管理のために設置した事務所跡のことです。 |
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施設名 | 大阪鉄工所跡 地図 |
所在地 | 此花区西九条7-2 |
TEL | |
詳細情報 | 大阪における洋式造船業発展の基礎となっ た大阪鉄工所は、明治12年親日英人E.H.ハンタ−によってこの地に築かれた。その後昭和18年桜島に移り日立造船となる。 |
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施設名 | スーパー堤防 地図 |
所在地 | 此花区酉島4-1 |
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詳細情報 | 阪神淡路大震災により新淀川の堤防が崩れ、高規格堤防(スーパー堤防)としてより丈夫で大きい堤防に生まれ変わった。スーパー堤防は地域住民にとって防災上大変重要な機能を持っている。この水と緑の良好な河川空間を活かし、人と自然のより良い関係を築き上げている。 |
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施設名 | 八州軒の跡 地図 |
所在地 | 此花区春日出南1-2(春日出公園内) |
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詳細情報 | 大阪の新田開発は、江戸時代元禄期(17世紀末)ごろから盛んになった。この辺りも元禄11年(1698年)に雑賀屋七兵衛により開かれた春日出新田である。八州軒は、その会所の庭園であり摂津・河内・和泉・紀伊・淡路・播磨・山城・大和の八州を一望できたところから名付けられたと |
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施設名 | 白砂大神 地図 |
所在地 | 此花区梅香1-25 |
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詳細情報 | 大阪市電は明治36年(1903)に花園筋〜築港桟橋間で開通したが、此花区には大正9年(1920)に福島区野田(当時は兼平町)から朝日橋まで入り、順次、千鳥橋・三本松・桜島・桜島駅前まで延伸された。これに伴う道路拡幅工事で、白砂大神脇にあるいちょうの木を切ろうという話が持・ |
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施設名 | 龍渓禅師墓所 地図 |
所在地 | 西区本田3-4 九島院内 |
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施設名 | 大阪市電発祥の地 地図 |
所在地 | 西区千代崎2-8 |
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詳細情報 | 大阪に市電が開通したのは、明治36年9月12日である。大阪港発展のため、九条新道の東端花園橋(現在の市バス九条新道停)を起点として、築港までの約5キロメ-トル。単線で最初は2階付電車も走り、夏は納涼、冬は魚釣り電車ともいわれた。 |
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施設名 | 伏屋素狄顕彰碑 地図 |
所在地 | 西区北堀江3-7 和光寺内 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 木村蒹葭堂邸跡 地図 |
所在地 | 西区北堀江4-3 中央図書館南東角 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 九条と朝鮮通信使の碑 地図 |
所在地 | 西区千代崎1-1 松島公園内 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 西長堀川と鰹座の跡 地図 |
所在地 | 西区北堀江4−1 |
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施設名 | 安治川隧道 地図 |
所在地 | 此花区西九条2 |
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詳細情報 | 安治川は、貞享元年(1684)より水都大阪の主要水路として利用され、両岸には回船問屋や船宿が立ち並んでいた。この安治川の両岸を結ぶ渡しとして「源兵衛渡し」という渡し船の乗り場があったが、昭和19年(1944)、川の底をトンネルで結んだ安治川隧道がつくられた。当時は人と |
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施設名 | 安治川隧道 地図 |
所在地 | 西区安治川1-2 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 鍛冶屋と製図夜学校の跡 地図 |
所在地 | 西区本田3−10 |
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施設名 | 安治川と河村瑞賢紀功碑 地図 |
所在地 | 西区川口4−8 |
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施設名 | 西九条公園 地図 |
所在地 | 此花区西九条5-4 |
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詳細情報 | 大阪市内でも有数の梅の名所。「此花」という区名の由来となった昔王仁博士が詠んだと伝えられる 『浪速津や 咲くやこの花 冬ごもり今をはるべと 咲くやこの花』にあるように、元来花といえば大阪では梅の花で、梅の古語は「木の花」である。十数種類の梅の木が百数十本 |
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施設名 | 富島渡船場跡 地図 |
所在地 | 西区川口3−7 |
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施設名 | 外人雑居地の跡 地図 |
所在地 | 西区川口3−5 |
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施設名 | 川口居留地跡 地図 |
所在地 | 西区川口1-5 本田小学校北西角 |
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施設名 | 大阪府庁跡 地図 |
所在地 | 西区江之子島2-1 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 阿波掘川跡 地図 |
所在地 | 西区江之子島2-1 |
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施設名 | 薩摩掘川跡 地図 |
所在地 | 西区立売堀4−2 薩摩堀公園内 |
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施設名 | 大阪開港の跡 地図 |
所在地 | 西区川口2−9 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 川口運上所跡 地図 |
所在地 | 西区川口2−9 |
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施設名 | 川口電信局跡 地図 |
所在地 | 西区川口2−9 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 安治川橋跡 地図 |
所在地 | 西区川口2−4 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 雑喉場橋跡 地図 |
所在地 | 西区江之子島1−9 道路敷内 |
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施設名 | 雑喉場魚市場跡 地図 |
所在地 | 西区江之子島1-3 |
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施設名 | 大阪市役所江之子島庁舎跡 地図 |
所在地 | 西区江之子島1-9 |
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詳細情報 | 明治22年4月、市制・町村制により大阪市が成立したが、同時に施行された市制特例により、市長は府知事が兼務し、市役所は府庁内に置かれた。同31年9月市制特例の廃止により、大阪市は独立庁舎の必要にせまられ、翌32年12月、府庁の北側木津川東詰に市役所を移転し、同45年5・ |
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施設名 | 京町堀川跡 地図 |
所在地 | 西区江之子島1−7 靱防潮用具庫前 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 庚申堂 地図 |
所在地 | 此花区伝法5-8 |
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詳細情報 | 申(さる)村(旧伝法5丁目)の元住吉神社境内にある。今もこの地域の人々の信仰を集めている。「くくり猿」が奉納され江戸時代の庚申(こうしん)信仰の名残の行事がある。現在は神仏習合し猿田彦大神を祀っている。 |
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施設名 | 伝法水門 地図 |
所在地 | 此花区伝法5−12 |
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詳細情報 | 明治6年(1873)、度重なる洪水や高潮などの水害のため淀川の改良工事が行われ、それに伴い伝法閘門(こうもん)が完成した。しかしその後、工業化の進展に伴い地下水の使用過多による地盤沈下が激しくなり、閘門としての機能が失われた。昭和39年(1964)、高潮対策として閘門に・ |
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施設名 | 鴻池組旧本店・本宅 地図 |
所在地 | 此花区伝法4-3 |
TEL | |
詳細情報 | 明治43年に建てられた木造二階建ての洋館と東側本宅和館の和洋併設住宅である。大正3年一部改装されているが、本店・本宅ともに当時の建築様式・調度品を残している。 |
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施設名 | 森巣橋 地図 |
所在地 | 此花区四貫島〜伝法 |
TEL | |
詳細情報 | 文久3年(1863)備前藩によって架けられたこの橋は、川の側にある傳母頭(もりす)神社の「傳母頭」の名を保存するために名付けられたといわれている。寒い時期は、橋の下でゆったり泳ぐ鴨の群れを目にすることができる。 |
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施設名 | 日本鋳鋼所跡 地図 |
所在地 | 此花区伝法3-13 |
TEL | |
詳細情報 | 日本鋳綱所(現住友金属)の発祥の地として、小学校の校門を入ったところに石碑が残っている。日本鋳綱所は、明治32年(1899)建設された我が国初の本格的な製鉄所で、翌年4月に初湯された。 |
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施設名 | 大塚切れ洪水碑 地図 |
所在地 | 西淀川区福町淀川堤防沿い |
TEL | |
詳細情報 | 大正6年9月末の豪雨により淀川右岸三島郡大冠村(現在の高槻市)大塚の堤防が二百メートルにわたり決壊しました。この洪水の決壊個所から「大塚切れ」と呼ばれました。三島郡の大半を沈め当時西成郡であった現在の東淀川区、淀川区、西淀川区一帯は泥海と化し、十三付近で浸水 |
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施設名 | 21人討死之碑 地図 |
所在地 | 福島区玉川4-5-17(玉川コミュニティセンター) |
TEL | |
詳細情報 | 天文2年(1533)福島・野田を訪れた本願寺第十世証如上人は、近江の佐々木六角定頼の手勢に不意をつかれた。野田・福島の門徒の百姓衆が鋤・鍬・鎌を持って敵兵に立ち向かい、証如上人を護るために命をかけて戦い紀州に逃したが、信徒21人が犠牲になった。後に、このことを知・ |
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施設名 | 花乃井橋跡 地図 |
所在地 | 西区江戸堀2−8 花乃井中学校内 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 大阪上等裁判所跡 地図 |
所在地 | 西区土佐堀2-4 三井倉庫大阪支店前西北角 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 此花乃井 地図 |
所在地 | 西区江戸堀2−8 花乃井中学校内 |
TEL | |
詳細情報 | |
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施設名 | 薩摩藩蔵屋敷跡 地図 |
所在地 | 西区土佐堀2-4 三井倉庫大阪支店東南角 |
TEL | |
詳細情報 | |
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施設名 | 野田の藤跡 地図 |
所在地 | 福島区玉川2-2-7 |
TEL | |
詳細情報 | 野田阪神から新なにわ筋線沿いに南へ約500メートルに玉川南公園がある。その東に春日神社の祠があり、その境内に高さ約1.2メートルの「野田の藤跡」石碑が建てられている。 |
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施設名 | 野田城跡伝承地 地図 |
所在地 | 福島区玉川4-11-15 |
TEL | |
詳細情報 | 地下鉄千日前線「玉川」出口すぐ(あさひ銀行前の植え込みの中)に「野田城跡」の石碑が建てられている。石碑の左側面に「戦国時代、石山本願寺ついで織田信長の重要拠点となった字『城之内』と呼ばれたこの辺りがその中心である」と刻み込まれており、平成2年3月に大阪市が建 |
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施設名 | 「松下幸之助創業の地」記念碑 地図 |
所在地 | 福島区大開1-18-25 大開公園内 |
TEL | |
詳細情報 | この記念碑は、平成16年11月27日、町おこしの一環もかねて、大開公園の一角に建てられました。 この地は「経営の神様」といわれた松下幸之助が、大正7(1918)年創業した松下電器製作所の第2次本店工場の地で、自宅もこの敷地内にありました。昭和8年(・ |
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施設名 | 松瀬青々旧跡 地図 |
所在地 | 福島区海老江4-10-17 |
TEL | |
詳細情報 | 松瀬青々は明治2年4月船場の薪炭商の長男として生まれた。本名は弥三郎、北浜上等小学校を卒業後、丁稚奉公や呉服行商をしたが、そののち、第一銀行大阪支店に入社した。28歳の頃から俳句を学び「ホトトギス」に投句したのがきっかけで子規と会い、勤めていた第一銀行を辞め |
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施設名 | 羽間文庫 地図 |
所在地 | 福島区海老江6-8-14 |
TEL | |
詳細情報 | 間重富(1756-1816)は江戸中期の天文・暦学者。麻田剛立の塾で西洋の天文学・暦学を学び、幕府の改暦に功績があった。重富は、その子重新と天文観測機器の改良をはじめ観測データなど多くの資料・文献を残した。また、重富は大阪蘭学の発展にも寄与した。羽間文庫は、天体観・ |
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施設名 | 逆櫓の松跡 地図 |
所在地 | 福島区福島2-2-4(マンションドミール堂島前) |
TEL | |
詳細情報 | 「平家物語」の逆櫓の段によれば、元暦2年(1185年)2月、源義経は平氏を討つため京都を出発し、摂津国の渡辺、福島から、四国の八島(屋島)を船で急襲しようとした。源義経は、船での戦いはあまり経験がなかったので、みなで評議していると、参謀役の梶原景時が「船を前後どち |
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施設名 | 浄正橋跡碑 地図 |
所在地 | 福島区福島2-1-34 |
TEL | |
詳細情報 | 国道2号線となにわ筋の交わる交差点を「浄正橋」と今は言うが、実際は、その交差点から約100メートルほど南に下ったところを、東西に「蜆川」と言う川が流れ、そこにかかっていた橋が「浄正橋」と言われていた。大正15年5月、福島史談会が「浄正橋跡」の碑を建てたが、その・ |
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施設名 | ミナミ(株){国登録文化財 (建造物)} 地図 |
所在地 | 福島区福島5-17-7 |
TEL | |
詳細情報 | JR新福島駅近くの国道2号線に面したミナミ株式会社の建物は昭和9年(1934年)に建てられ、登録文化財になっています。 |
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施設名 | 福沢諭吉誕生地 地図 |
所在地 | 福島区福島1-1 |
TEL | |
詳細情報 | 「天は人ノ上ニ人ヲツクラズ、人ノ下ニ人ヲツクラズ」の言葉で知られる福沢諭吉は、天保5年(1835年)豊前中津藩士福沢百助の兄1人、姉3人の5番目の末子として、同藩大坂蔵屋敷(旧阪大病院跡)のこの地で生まれた。 |
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施設名 | 阿部寺跡推定地の碑 地図 |
所在地 | 阿倍野区松崎町3-6 |
TEL | |
詳細情報 | 庚申街道沿いの路地の一角に、現在は松長大明神が祀られていますがその付近から阿倍野氏の氏寺と考えられている阿部寺の塔心礎が発見されました。塔心礎の大きさから、相当規模の堂塔伽藍が存在していたと思われます。白鳳・奈良時代の重弧文軒平瓦・蓮華文軒丸瓦が出土して |
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施設名 | てんのじ村記念碑 地図 |
所在地 | 西成区山王1-10-17 |
TEL | |
詳細情報 | 昭和52年に建てられた全長6メートル余リはある青石の碑である。戦前から戦後にかけて山王1丁目から3丁目辺りには、多くの漫才師などの演芸陣や興業師などが集まり居住した。特に戦災を免れたために一時は関西の芸能人の大半が集まり、洒落めかして自ら天王寺(てんのじ)村・ |
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施設名 | 近松門左衛門碑・猫塚 地図 |
所在地 | 西成区太子2-3-19 松乃木大明神内 |
TEL | |
詳細情報 | 江戸時代中期の浄瑠璃作家、近松門左衛門の巨大な碑である。明治34年第5回内国勧業博覧会のため、当時、天王寺公園内にあった碑を地主、室上小三郎という人が許可を得て現在地に移したことが台石に書かれている。猫塚は、明治34年室上小三郎が建てたものである。この塚は、・ |
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施設名 | 「西濱水平社発祥の地」の碑 地図 |
所在地 | 浪速区浪速東3-3 |
TEL | |
詳細情報 | 大正11年(1922年)3月、部落差別の撤廃をめざして全国水平社が京都の岡崎公会堂で結成され、大阪でも水平社結成の動きが強まり、5か月後の8月、浪速の地に「西濱水平社」が結成されました。大阪における部落解放の中心地としてのみならず、後に全国水平社の本部が置かれた・ |
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施設名 | 通天閣 地図 |
所在地 | 浪速区恵美須東1-18-6 |
TEL | |
詳細情報 | 明治45年(1912年)パリのエッフェル塔をモデルに建設され、全国的にもその名が知られている大阪のシンボル通天閣は、「天に通ずる塔」という意味で、現在の通天閣は2代目です。 |
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施設名 | ジャンジャン横丁 地図 |
所在地 | 浪速区恵美須東3丁目2〜4番 |
TEL | |
詳細情報 | 通天閣を中心とした新世界の一角を占める名物商店街、かつて浪速で一番の繁華街だった雰囲気がそのまま残っていて、居酒屋、串カツ屋、食堂など安くておいしい飲食店や、囲碁・将棋、ゲームセンターなどがひしめいています。ジャンジャン横丁と呼ばれるのは、戦前安酒をあお |
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施設名 | 王将碑 地図 |
所在地 | 浪速区恵美須東1-18 |
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詳細情報 | 大正時代の将棋名人・坂田三吉を偲んで、通天閣の真下に建てられました。毎年7月の王将まつりには多くの将棋ファンが集まります。 |
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施設名 | 大阪国技館跡 地図 |
所在地 | 浪速区恵美須東3-4 |
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詳細情報 | 大阪と相撲とのかかわりは古く、江戸とならんで相撲の興行が盛んで、大阪相撲の伝統が築かれていました。明治11年(1878年)には大阪相撲協会が設立され、明治38年(1905年)に難波新地に常設の興行場所が設けられました。 |
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施設名 | 茶臼山古墳と河底池 地図 |
所在地 | 天王寺区茶臼山町 天王寺公園内 |
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詳細情報 | 大阪冬の陣で家康の本陣となり、夏の陣では幸村が布陣し激戦地となった茶臼山は、奈良時代に和気清麻呂が河内川の流水を南にひこうとした河底池とともに、天王寺公園の風景にとり入れられている。 |
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施設名 | 慶沢園 地図 |
所在地 | 天王寺区茶臼山町 天王寺公園内 |
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詳細情報 | 本園はもと住友本邸の庭で、明治41年庭師小川治兵衛が作り、伏見宮貞愛親王が慶沢園と命名した。大正10年に大阪市に寄贈された。 |
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施設名 | 旧黒田藩屋敷長屋門と林芙美子文学碑 地図 |
所在地 | 天王寺区茶臼山町 天王寺公園内 |
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詳細情報 | 現在中之島三井ビルの場所がおおむね福岡黒田藩の蔵屋敷で、これはその長屋門である。数少ない蔵屋敷遺構の一つで、昭和8年三井ビル建設に際し大阪市に寄贈された。 |
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施設名 | 広瀬旭荘墓所 地図 |
所在地 | 天王寺区茶臼山町 統国寺内 |
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詳細情報 | 名は謙。大分県日田の人。儒者淡窓の実弟。詩文に通ず。30歳で大阪に来り、多数の門人を教育す。幅広い浪華文化人との交流がある。文久3年57歳で没。 |
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施設名 | 竹本義太夫墓所 地図 |
所在地 | 天王寺区大道1丁目 超願寺内 |
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詳細情報 | 義太夫は義太夫節浄瑠璃の元祖といわれ、その繁盛は彼に始まった。この地天王寺村の生まれで、正徳4年(1714)64歳で死去した。 |
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施設名 | 「小西来山十萬堂跡」の碑 地図 |
所在地 | 浪速区恵美須西2-1 |
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施設名 | 清水坂と玉出の滝 地図 |
所在地 | 天王寺区 |
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詳細情報 | 清水寺に登る坂道であるところからこう呼ばれる。 清水寺は寛永17年(1640)延海阿闍梨によって、京都の清水寺を模して北、西、南が崖になった高台に改構されたもので、その昔はここからの眺望は絶品とされていた。 |
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施設名 | 天神坂と安居神社・真田幸村戦死跡碑 地図 |
所在地 | 天王寺区 |
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詳細情報 | 安居神社北側の谷間にある坂道で、安居天神に通じるところからこの名がつけられた。安居神社には七名水の一つ安井の清水があり「かんしずめ(癇静め)の井」と呼ばれ有名であったが、今はその井戸跡だけが残っている。また、大阪夏の陣で家康と戦った真田幸村が、傷つきこの天 |
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施設名 | 逢坂 地図 |
所在地 | 天王寺区 |
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詳細情報 | 天王寺区松屋町筋終点、いわゆる合法ヶ辻から四天王寺西門に至る坂道である。 |
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施設名 | 増井の清水 地図 |
所在地 | 天王寺区伶人町 |
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詳細情報 | 上町台地の南部には良水の井戸が多い。これらを「逢坂清水」といい、「天王寺七名水」ともいう。増井の清水もその一つである。 |
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施設名 | 源ヶ橋温泉 地図 |
所在地 | 生野区林寺1-5 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 大阪慈恵病院跡 地図 |
所在地 | 生野区生野東2-3 生野工業高等学校内 |
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施設名 | 生野八坂神社 地図 |
所在地 | 生野区生野東4-7 |
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施設名 | 眼鏡レンズ発祥之地 地図 |
所在地 | 生野区田島3-5 田島神社内 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 摂津国分寺跡 地図 |
所在地 | 天王寺区国分町 |
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詳細情報 | この地域は昔から国分寺の名を伝え、奈良時代の瓦が出土したこともあって、古来摂津国文寺跡と推定されている。(国分公園) |
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施設名 | 生野神社 地図 |
所在地 | 生野区舎利寺1-2 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 平野川ウォールペインティング 地図 |
所在地 | 生野区舎利寺1丁目9番地 |
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詳細情報 | 区民のみなさんの絵で平野川の護岸壁が飾られています |
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施設名 | 御勝山古墳 地図 |
所在地 | 生野区勝山北3-16 |
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施設名 | 勝山遺跡 地図 |
所在地 | 生野区勝山北3-16 |
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施設名 | 大阪府立農学校跡 地図 |
所在地 | 生野区勝山北3-13 生野区民センター内 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 折口信夫の碑 地図 |
所在地 | 生野区勝山南3-3 御勝山南公園 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 大阪管区気象台跡 地図 |
所在地 | 生野区勝山南3-3 御勝山南公園内 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 「折口信夫生誕の地」の碑 地図 |
所在地 | 浪速区敷津西1-7(鴎町公園内) |
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詳細情報 | |
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施設名 | 木津勘助銅像 地図 |
所在地 | 浪速区敷津西1-2(敷津松之宮・大国主神社内) |
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詳細情報 | 本名を中村勘助といい、天正14年(1586年)相模(神奈川県)で生まれました。豊臣秀吉に仕え、堤防工事や新田開発に尽くしました。 |
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施設名 | なんばCITY 地図 |
所在地 | 浪速区難波中2-10 |
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詳細情報 | 本館・南館の7フロアーにわたって、ファッションからホビー、飲食店まで約300店舗が軒を競っています。浪速区と中央区にまたがって店舗展開されているビッグなショッピングセンターです。また、南館の西側の大阪球場の跡地に平成15年(2003年)10月になんばパークスがオープン |
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施設名 | なんばパークス 地図 |
所在地 | 浪速区難波2-10-70 |
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詳細情報 | 平成15年(2003年)10月7日にオープンした複合緑化都市「なんばパークス」は、「人・都市・自然のシンフォニー」をテーマに開発されました。 |
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施設名 | 南海ホークスメモリアル施設 地図 |
所在地 | 浪速区難波2-10-70 なんばパークス内 |
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詳細情報 | 大阪球場〔昭和25年(1950年)〜平成10年(1998年)〕跡地を中心に建設された“なんばパークス”に南海ホークスメモリアル施設があります。 |
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施設名 | 「難波御蔵・難波新川跡」の碑 地図 |
所在地 | 浪速区難波中2-10 |
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詳細情報 | 江戸時代に幕府直轄の天王寺御蔵と難波御蔵の二つが当区にありました。ことに難波御蔵は享保17年(1732年)飢饉に際して設けられ、幕府直轄の米蔵が置かれたところでした。東西126m南北324mの敷地に米蔵八棟を有し、災害時の救援米貯蔵の役割を担っていました。翌、享保18 |
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施設名 | 「鼬(いたち)川くり船発掘の地」の碑 地図 |
所在地 | 浪速区難波中3-10 |
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詳細情報 | 明治11年(1878年)いたち川と難波新川の貫通工事中に全長12m程のくり船が発掘されました。くり船とは丸木船のことで発掘されたのは複材くり船であり、前後2本のくすのきで造られ、継ぎ目の部分は釘を使わず巧みな仕組みになっていました。船出町の旧町名はこれに由来し、・ |
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施設名 | でんでんタウン 地図 |
所在地 | 浪速区 |
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詳細情報 | 電器街「でんでんタウン」は、なんさん通りから日本橋一帯に約300店近くの電気店が軒を並べ、家電製品から、パソコンなどを扱う大ショッピングストリートです。 |
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施設名 | 秩父宮同妃両殿下台臨記念碑 地図 |
所在地 | 浪速区日本橋5-16 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 口縄坂と織田作之助文学碑 地図 |
所在地 | 天王寺区 |
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詳細情報 | 老木がうっそうと生い茂り、ゆるやかにうねっている石畳の坂道で下から見ると蛇のように見えるところから坂の名がつけられた。一説には大阪築城の際の縄打ち口(起点)であったからだとも。この坂道の上には、市教育委員会が建てた織田作之助「木の都」の文学碑がある。 |
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施設名 | 愛染坂と大江神社・浮瀬亭跡 地図 |
所在地 | 天王寺区 |
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詳細情報 | 大江神社南側の坂道で、坂の下り口にある愛染堂に参る道であるところから名付けられた。 |
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施設名 | 上島鬼貫墓所 地図 |
所在地 | 天王寺区六万体町 鳳林寺内 |
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詳細情報 | 鬼貫は伊丹の人。延宝年間大阪に来住し、芭蕉に先んじて「まことの外に俳諧なし」と開眼して多くの名句をのこした。元文3年(1738)鰻谷で没。 |
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施設名 | 麻田剛立墓所 地図 |
所在地 | 天王寺区夕陽丘町 浄春寺内 |
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詳細情報 | 麻田剛立はもと豊後杵築藩の医官で、明和8年(1771)来阪して医学・天文の分野に大きな業績をのこした。寛政11年(1799)没。66歳。 |
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施設名 | 伝 藤原家隆墓 地図 |
所在地 | 天王寺区夕陽丘町 |
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詳細情報 | 藤原家隆(1158−1237)は鎌倉時代初期の人で、藤原定家と並び称される歌人である。「新古今和歌集」の編纂にも撰者の1人として参加している。 |
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施設名 | 植村文楽軒墓所 地図 |
所在地 | 天王寺区下寺町2丁目 円成院内 |
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詳細情報 | 初代文楽軒は江戸中期の人で、いわゆる文楽の芝居をおこし人形浄瑠璃興行に新時代をもたらした斯道の恩人である。文化7年(1810)没。 |
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施設名 | 御蔵跡履物街 地図 |
所在地 | 浪速区日本橋東3丁目1番・5番、1丁目1〜3番 |
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詳細情報 | 100軒以上もの履物問屋が集まり、下町情緒あふれるこの界隈は履物問屋街(はきはきタウン)とよばれ、浅草の花川戸と並び全国に知られています。 |
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施設名 | 高島屋史料館 地図 |
所在地 | 浪速区日本橋3-5-25(高島屋東別館 南側入口 3階) |
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詳細情報 | 高島屋史料館は、高島屋の株式会社設立50周年事業の一環として、昭和45年(1970年)に開館しました。 |
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施設名 | 竹田出雲墓所 地図 |
所在地 | 天王寺区生玉寺町 青蓮寺内 |
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詳細情報 | 出雲は近松門左衛門と並ぶ浄瑠璃作家中の巨匠で、菅原伝授手習鑑・義経千本桜・仮名手本忠臣蔵など幾多の名作を残した。宝暦6年(1756)没。 |
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施設名 | 鯛屋貞柳墓所 地図 |
所在地 | 天王寺区下寺町1丁目 光傅寺内 |
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詳細情報 | 菓子司鯛屋清兵衛は男山の信海に狂歌を学び、油縁斎貞柳として世に聞こえ、狂歌中興の人として仰がれた。享保19年(1734)没。 |
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施設名 | 赤穂義士の寺 地図 |
所在地 | 天王寺区六万体町 吉祥寺内 |
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詳細情報 | 吉祥寺は、寛永(かんえい)7年(1630)創建の曹洞宗の禅寺で、山号は万松山という。住職が赤穂の出身で、特に浅野長矩(あさのながのり)の帰依を受け浅野家の菩堤寺として参勤交代の折には必ずこの寺院に立寄ったという。元禄(げんろく)15年(1702)の討ち入りの翌年2月、大石内蔵 |
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施設名 | 源聖寺坂 地図 |
所在地 | 天王寺区 |
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詳細情報 | 狭い石畳のゆるやかな坂道で、源聖寺の横にあるところからこう呼ばれる。織田作之助の「夫婦善哉」の舞台にもなり、坂を登りつめたところにある銀山寺には、近松門左衛門の「心中宵の庚申」の主人公お千代半兵衛の比翼塚が、齢延寺には藤澤東がいの墓がある。 |
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施設名 | 水防碑 地図 |
所在地 | 浪速区幸町2-1(西道頓堀橋南西詰) |
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詳細情報 | 浪速区では過去に幾多の水害に見舞われ、そのたびに多くの貴重な人命と財産が失われました。近年では、このような大水害はほとんど見られなくなりましたが、常日頃から水防意識を高め、災害に対する心構えを忘れないようにと記されています。 |
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施設名 | 勧進相撲興行の地 地図 |
所在地 | 西区南堀江2−8 |
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施設名 | 織田作之介文学碑 地図 |
所在地 | 中央区道頓堀1-7 法善寺横丁 |
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詳細情報 | 織田作之助(1913〜1947)は大阪に生まれ、新戯作派、無頼派作家として称されて独自の歩みを示しました。昭和14年(1939)の『俗臭』は芥川賞候補となり、次年の『夫婦善哉』は大阪ものの代表として高い評価を得ました。 |
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施設名 | 谷崎潤一郎文学碑 地図 |
所在地 | 中央区日本橋1-6 国立文楽劇場西 |
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詳細情報 | 谷崎潤一郎(1886〜1965)は東京に生まれ、関東大震災を機に関西に移りました。関西の風土と伝統文化にひかれ、純日本的、古典的なものへの関心を高めて、『卍』、『蓼喰う蟲』、『春琴抄』など中期の名作群を生みました。 |
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施設名 | 真言坂 地図 |
所在地 | 天王寺区 |
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詳細情報 | 生國魂神社北側にある南北の坂をいう。この坂の周辺に真言宗の生玉十坊があったところからこう呼ばれた。 |
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施設名 | 堂ヶ芝廃寺 地図 |
所在地 | 天王寺区堂ケ芝1丁目 観音寺境内 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 細工谷遺跡出土遺物 地図 |
所在地 | 天王寺区細工谷1丁目 |
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詳細情報 | 細工谷遺跡は難波宮の南方2q弱にあり、推定朱雀大路跡の東隣に位置する。平成8年度の発掘調査によって、難波京内で全く空白であった地域に「百済尼寺」という古代寺院の存在が確認され、全国で初めて和同開珎の枝銭が出土した。 |
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施設名 | つるのはし跡公園 地図 |
所在地 | 生野区桃谷3-17 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 難波津の歌の歌碑 地図 |
所在地 | 生野区桃谷3-10 御幸森天神宮内 |
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詳細情報 | |
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施設名 | コリアタウン 地図 |
所在地 | 生野区桃谷3〜5丁目 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 猪飼野新橋 地図 |
所在地 | 生野区鶴橋5-20 |
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施設名 | 薄田泣菫文学碑 地図 |
所在地 | 中央区上本町西4-1 東平北公園内 |
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詳細情報 | 薄田泣菫(1877〜1945)は岡山県に生まれ、24歳で大阪に出て文芸雑誌、詩集を刊し、象徴派詩人として名声を得ました。 |
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施設名 | 武田麟太郎文学碑 地図 |
所在地 | 中央区上本町西4-1 誓願寺門前 |
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詳細情報 | 武田麟太郎(1904〜1946)は大阪に生まれ、『暴力』で作家としての地位を築き、新しい技法を駆使した作品を発表しました。 |
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施設名 | 片山北海・入江昌喜墓所 地図 |
所在地 | 天王寺区城南寺町 梅松院内 |
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詳細情報 | 北海は江戸時代後期の人で、混沌詩社をおこして大阪文化に大きく寄与した。昌喜も同時代の人で町人国学者として多くの著書をのこした。 |
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施設名 | 実相寺浄土曼茶羅図 地図 |
所在地 | 天王寺区上本町4丁目 実相寺内 |
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詳細情報 | 曼荼羅図(まんだらず)とは仏画の一種で、阿弥陀や菩薩など諸尊の像を一定の方式に並べて描いたものをいう。わが国では浄土曼荼羅に、当麻曼荼羅・清海曼荼羅・智光曼荼羅の3種があるとされるが、古くから織物の曼荼羅を絵に写して拝む信仰が盛んであった。実相寺ものは当麻・ |
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施設名 | 岡田米山人・岡田半江墓所 地図 |
所在地 | 天王寺区上本町5丁目 妙中寺内 |
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詳細情報 | 父子ともに大阪の人で、米山人は詩書を作り、また文人画を描いた。半江も詩文書画に長じ、田能村竹田・頼山陽らの文化人と交友し、大阪文人画の指導者であった。 |
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施設名 | 志太野坡墓所 地図 |
所在地 | 天王寺区餌差町宝国寺内 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 胞衣塚 地図 |
所在地 | 東成区東小橋3-9 |
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詳細情報 | 垂仁天皇2年に創建されたとされる比売許曽(ひめこそ)神社にまつられている大小橋(おおばせ)命の胞衣を納めた塚と伝えられています。 |
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施設名 | 亀の橋 地図 |
所在地 | 東成区玉津2-20 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 平野川ウォールペインティング 地図 |
所在地 | 生野区中川西1丁目4番 |
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詳細情報 | 区民のみなさんの絵で平野川の護岸壁が飾られています |
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施設名 | 平野川ウォールペインティング 地図 |
所在地 | 生野区鶴橋5丁目9番 |
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詳細情報 | 区民のみなさんの絵で平野川の護岸壁が飾られています |
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施設名 | 大阪セルロイド会館(国登録有形文化財) 地図 |
所在地 | 東成区大今里西2-11-12 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 松下幸之助起業の地 地図 |
所在地 | 東成区玉津2-14-8 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 横野神社跡 地図 |
所在地 | 生野区巽西3-9 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 巽村役場跡 地図 |
所在地 | 生野区巽中3-18 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 釈翠岩墓所 地図 |
所在地 | 生野区中川東2-7 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 松尾神社跡 地図 |
所在地 | 生野区中川東2-8 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 小路村役場跡 地図 |
所在地 | 生野区小路1-20 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 葵紋三足香炉 地図 |
所在地 | 東成区大今里4-16-50 |
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詳細情報 | 妙法寺に伝わる大型の香炉、仏前において香を薫(た)くための道具。 |
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施設名 | 笠縫邑跡 地図 |
所在地 | 東成区深江南3-16-17 |
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詳細情報 | 「大阪はなれて早や玉造、笠を買うなら深江が名所」と伊勢音頭の一節にあるように、深江は菅笠の産地として有名です。 本居宣長の「玉勝間」の中に「笠縫島は今摂津国東生郡(現東成区)の深江村といえる所なるべし」とも書かれています。 |
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施設名 | 堀江川の跡 地図 |
所在地 | 西区南堀江1−13 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 角藤定憲改良演劇創始の地 地図 |
所在地 | 西区新町2−6 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 間長涯天文観測の地 地図 |
所在地 | 西大橋駅自転車駐車場南側 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 初世中村鴈治郎生誕の地 地図 |
所在地 | 西区新町1−17 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 新町九軒桜堤の跡 地図 |
所在地 | 西区新町1-15 新町北公園 |
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詳細情報 | 文政2年(1819)、当時大坂唯一の公認遊所のあったこの地に植えられた桜は、九軒町の夜桜として「浪速名所図会」にも紹介され有名であった。西鶴の「好色一代男」や近松の「夕霧阿波鳴渡」で知られた吉田屋が近くにあり、その賑わいが描かれている。 |
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施設名 | 四ツ橋跡 地図 |
所在地 | 四ツ橋高速道路下 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 直木三十五文学碑 地図 |
所在地 | 中央区安堂寺町2-3 榎大明神横 |
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詳細情報 | 直木三十五(1891〜1934)は大阪に生まれ、本名は植村宗一。31歳の時に筆名を直木三十一とし、以後年をおって三十二、三十三と改め、三十五として定着しました。 |
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施設名 | 明治橋跡 地図 |
所在地 | 西区立売堀2−1−9 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 大阪商業講習所跡 地図 |
所在地 | 西区立売堀2-2 阿波座南公園西南隅 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 立売堀川跡 地図 |
所在地 | 西区立売堀1−4 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 永代橋・門樋橋跡 地図 |
所在地 | 西区靱本町1−20 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 靱公園と石碑 地図 |
所在地 | 西区靱本町1−2 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 永代浜跡 地図 |
所在地 | 西区靱本町2-1 楠永神社境内 |
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詳細情報 | いまの靱本町には、もと海部堀川があった。元和8年(1622)移住してきた靱の塩干魚商人らが、荷物陸揚げの便をよくするため、寛永元年(1624)開削したもので、阿波堀川から起こり、北進してもとの海部町東端で直角に屈折し、西流して京町堀川に流入していた。この阿波堀川・ |
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施設名 | 中天游邸跡 地図 |
所在地 | 西区京町堀2-11 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 信濃橋洋画研究所跡 地図 |
所在地 | 西区靱本町1−11 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 太閤(背割)下水 地図 |
所在地 | 中央区農人橋1-3-3 |
TEL | 06-4963-2092 |
詳細情報 | |
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施設名 | 宇野浩二文学碑 地図 |
所在地 | 中央区糸屋町2-2 中大江公園内 |
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詳細情報 | 宇野浩二(1891〜1961)は福岡市で生まれ、4歳のときに大阪へ移りました。大正8年(1919)に『蔵の中』、『苦の世界』を発表して、作家としての地位を確立。 |
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施設名 | 西鶴文学碑 地図 |
所在地 | 中央区本町橋3 |
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詳細情報 | 井原西鶴(1642〜1693)は大阪に生まれ、近松門左衛門・松尾芭蕉と並んで元禄文芸の花を咲かせた一人です。天和2年(1682)『好色一代男』を出版し、浮世草紙として不動の地位を築きました。 |
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施設名 | 大阪(浪華)仮病院跡 地図 |
所在地 | 天王寺区上本町4丁目 大福寺 |
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詳細情報 | 明治2年2月、緒方惟準を院長とし、蘭医ボードウィンらを教師とし、当寺内に浪華仮病院が開設された。現在の大阪大学医学部の前身である。 |
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施設名 | 契沖旧庵並びに墓 地図 |
所在地 | 天王寺区空清町 円珠庵内 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 真田山旧陸軍墓地 地図 |
所在地 | 天王寺区玉造本町 |
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詳細情報 | この墓地は明治4年の創設で、日本でもっとも早く設置された陸軍墓地である。墓地には西南の役、日清日露及び今次大戦に至る戦没者将兵ら5,300余柱もの墓石が整然と並び霊堂には43,000余柱の遺骨が祀られている。 |
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施設名 | 二軒茶屋・石橋跡と絵図 地図 |
所在地 | 東成区東小橋1-2 |
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詳細情報 | 江戸時代から奈良街道が人の往来も盛んとなり、この街道の起点であった玉造に「つるや」「ますや」という二軒の茶屋が建てられ、旅人等の休息の場として繁昌したと伝えられています。茶屋が二軒あったところから“二軒茶屋”といわれ世に広く知れわたりました。 |
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施設名 | 関西法律学校発祥の地 地図 |
所在地 | 西区京町堀2−3 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 先賢景仰碑 地図 |
所在地 | 西区江戸堀1-21 西船場小学校内 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 大村益次郎寓地跡 地図 |
所在地 | 西区江戸堀2-6 |
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施設名 | 江戸堀川跡 地図 |
所在地 | 西区江戸堀1−6 |
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施設名 | 頼山陽生誕地 地図 |
所在地 | 西区江戸堀1-10 玉水記念館前 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 春琴抄の碑 地図 |
所在地 | 中央区道修町2-1 少彦名神社内 |
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詳細情報 | 谷崎潤一郎(1886〜1965)は東京に生まれ、関東大震災を機に関西に移りました。関西の風土と伝統文化にひかれ、純日本的、古典的なものへの関心を高めて、『卍』、『蓼喰う蟲』、『春琴抄』など中期の名作群を生みました。 |
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施設名 | 天満の子守歌歌碑 地図 |
所在地 | 北区天満3 南天満公園内 |
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詳細情報 | 『ねんねころいち天満の市よだいこ揃えて〜』と歌われ、なつかしいなにわの歌として今も伝えられる天満の子守歌は、天満青物市場を歌ったもの。現代でも新しくアレンジしたりして歌われています。 |
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施設名 | 淀川三十石船舟唄歌碑 地図 |
所在地 | 北区天満3 南天満公園内 |
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詳細情報 | 天満青物市場の対岸、現在の土佐堀通り沿いに八軒家船着場がありました。江戸時代の人々はここと京都を結ぶ三十石船で旅をしたり物資を運んだりしたとか。その頃歌われた歌が歌碑となって残っています。 |
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施設名 | かしくの墓 地図 |
所在地 | 北区曽根崎1-2-19 |
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詳細情報 | 酒乱がもとで兄を殺してしまった遊女かしくは、死罪になる前に、酒乱を直す神様になれるようにと願をかけました。法情寺にある墓には、今も酒の悩みでおまいりする人が絶えません。 |
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施設名 | 堂島薬師堂 地図 |
所在地 | 北区堂島1-6 |
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詳細情報 | 海岸がもっと内陸に近かった昔、海上の船からお堂がよく見えたことから、地名が「堂島」と名付けられたほど、由来は古い薬師堂です。当時、人びとの信仰も厚く「堂島のお大師さん」と呼ばれました。平成11年に完成した「堂島アバンザ」の庭園内に球形でモダンな建物として生 |
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施設名 | 緒方洪庵墓所 地図 |
所在地 | 北区同心1-3-1 |
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詳細情報 | 適塾で逸材を育成したほか、大阪で初めて種痘をしたり、コレラの治療方針を示すなど近代医学の発展にも尽くしました。龍海禅寺の墓のそばには、師を慕う大村益次郎の脚を埋めた足塚があります。 |
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施設名 | 大塩平八郎墓所 地図 |
所在地 | 北区末広町1-7 |
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詳細情報 | 天保8年(1837年)、自らの蔵書を金に換えて人々に与え、窮民救済に立ち上がりましたが、失敗して自害。人々が絶大な尊敬の念を寄せた大塩平八郎は、成正寺に眠っています。 |
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施設名 | 京橋 地図 |
所在地 | 都島区片町1-5 |
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詳細情報 | 大坂城京橋口北の寝屋川にかかる橋で、架橋時期は豊臣時代に遡ります。北詰から現在の都島区域を京街道が通り、名前はこの橋が京街道の起点であったことに由来します。大坂の東の玄関口として賑わい、高札場のある橋の北詰には毎朝川魚市が立ってコイ・フナ・ウナギ・ナマズ |
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施設名 | 中浜公園<モクレン> 地図 |
所在地 | 城東区中浜1-6 |
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施設名 | 川崎東照宮跡 地図 |
所在地 | 北区天満1-24-15 |
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詳細情報 | 大坂夏の陣の後に大坂城主となった松平忠明が、家康の死後に建てた東照宮。大阪の人々の豊臣氏への思慕の念をぬぐい去る目的もあったといわれています。 |
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施設名 | 藤田美術館 地図 |
所在地 | 都島区網島町10 |
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詳細情報 | 藤田伝三郎(1841〜1912)と嫡子平太郎・次男徳次郎が収集した美術品を展示公開する財団法人の美術館です。\r\n 伝三郎は長州(山口県)の出身で、明治維新後、陸軍用達などで蓄財し藤田組を創設、政商として活躍し大阪財界の重鎮になりました。また古美術や茶道に対する造 |
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施設名 | 青湾の碑 地図 |
所在地 | 都島区中野町1-10 毛馬桜之宮公園内 |
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詳細情報 | 桜宮堤防下の淀川左岸にかつて水が渦巻く青湾という小湾がありました。豊臣秀吉はここの甘く香る水を好んで茶の湯に用い、後世の隠元・高遊外・上田秋成・田能村竹田ら雅人たちも賞賛したといいます。明治28年(1895)に上水道ができるまで、大坂市中の飲料水として水屋が水 |
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施設名 | 桜宮 地図 |
所在地 | 都島区中野町1-12 |
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詳細情報 | 摂津東成郡中野村(現在の中野町)の淀川左岸に鎮座し、天照皇大神を主祭神とします。社伝によれば、もとは野田村(現在の東野田町)の旧大和川の堤、字桜の馬場にあったが、元和6年(1620)に社殿が洪水で流され、漂着した中野村に改めて祀られました。ところがそこも低地・ |
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施設名 | 小春・治兵衛の比翼塚と鯉塚 地図 |
所在地 | 都島区中野町2-1 大長寺境内 |
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詳細情報 | 享保5年(1720)10月14日、網島の大長寺の裏で天満の紙屋の主人・治兵衛と曾根崎の遊女・小春の心中事件がありました。この事件を脚色した近松門左衛門の浄瑠璃「心中天の網島」が評判となり、のち二人を弔うため大長寺に建てられた墓碑が比翼塚です。 隣に鯉塚があります・ |
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施設名 | 都島由来記 地図 |
所在地 | 都島区網島町11 毛馬桜之宮公園内 |
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詳細情報 | 都島区一帯の地は古墳時代中期以降、主に淀川の三角州の発達によって形成されました。当地に人が住み始めたのは平安時代頃からで、当地は法隆寺などの所領が入り交じる榎並荘(えなみのしょう)に属していたと推定されます。 区名は昭和18年4月1日に区が誕生したとき、明治 |
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施設名 | 大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊碑 地図 |
所在地 | 京橋駅南口 |
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詳細情報 | 太平洋戦争末期の昭和20年(1945)3月13日の深夜から翌日未明にかけて、アメリカ軍による大阪への最初の大空襲が行われました。その後7度の空襲がありましたが、その最後が8月14日の大空襲です。この日の昼過ぎ、米軍はB29爆撃機145機で大阪城東方の大阪陸軍造兵廠を中心に7 |
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施設名 | 京街道の碑 地図 |
所在地 | 都島区東野田町5-7 |
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詳細情報 | 京街道は大坂京橋を起点にして京都に至る道で、京道ともよばれました。淀川は暴れ川でしばしば左岸が決壊し、北河内が洪水の被害を受けました。大坂、淀、伏見に城を築いた豊臣秀吉は文禄年間に軍用道路の確保と治水を兼ねて大坂から伏見までの淀川の左岸堤防を修築しました |
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施設名 | くすのきの大木(八王子神社御旅所) 地図 |
所在地 | 東成区大今里1-17-10 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 安堵の辻 地図 |
所在地 | 東成区深江南3-7-6 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 千間川緑陰歩道 地図 |
所在地 | 城東区中浜−東中浜−永田 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 蓮乗寺と鳴かずの蛙 地図 |
所在地 | 城東区永田4-4-7 |
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詳細情報 | 応仁2年(1468年)に蓮如上人が叡福寺(南河内郡太子町)に参詣する途中、永田村の宮木久兵衛方に立ち寄り村人に説法されました。その庭先の石に腰掛けて村人に説法されました。その後、上人の説法が数年に及び、信者の願いによって草庵を建立したのが蓮乗寺のはじまりとのこと・ |
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施設名 | 中浜下水処理場<サクラ> 地図 |
所在地 | 城東区中浜1-17 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 鴫野・今福古戦場碑 地図 |
所在地 | 城東区鴫野東3-16-14 城東小学校校庭 |
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詳細情報 | 大阪冬の陣で有名な鴫野・今福の合戦は、付近一帯の城東区域を主戦場としたものでした。 |
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施設名 | 楠根川跡緑陰歩道 地図 |
所在地 | 城東区新喜多東1丁目 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 室戸台風遭難学童の碑 地図 |
所在地 | 城東区今福南1-5 |
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詳細情報 | 昭和9年9月21日の朝、近畿地方一帯を襲った台風は、わずか数時間の間に広範な区域にわたって大きな被害をもたらしました。なかでも、鯰江第2小学校(現聖賢小学校)と鯰江第3小学校(現今福小学校)では、倒れた校舎の下敷きとなって多くの児童が死傷するという大変痛ましい |
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施設名 | 巡航船の船つき場跡 地図 |
所在地 | 城東区今福南1丁目 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 新喜多新田会所跡 地図 |
所在地 | 城東区新喜多東1-8-40付近 |
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詳細情報 | 今から約300年前の新大和川の開通にともない、従来の田畑が新川河川敷となって消失すると同時に、元の川床・池床・堤敷が新田として開懇されました。 新喜多新田は、その中の一つで宝永元年(1704年)に開墾されたもので、長瀬川から旧大和川・ |
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施設名 | 古堤橋と寝屋川分流水門 地図 |
所在地 | 城東区今福南1・2丁目 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 旧野崎道の跡(石碑) 地図 |
所在地 | 城東区今福南2丁目1番 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 三郷橋の丸木舟と祠 地図 |
所在地 | 城東区今福西1-14 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 蒲生行者講 地図 |
所在地 | 城東区蒲生4-10-24 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 大和田城跡 地図 |
所在地 | 大和田4-3-24 大和田小学校内 |
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詳細情報 | 1580年(天正8年)織田信長が摂津の国を討ち従えたとき、阿波仁右衛門をしてこの地に城を築かせたことがありました。大和田の地は京都から淀川、神崎川を経て西国に通じる交通の要衝であったことから、戦略上の築城だと思われます。しかし、この城がいつごろまであったかに・ |
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施設名 | 万葉の歌碑 (姫嶋神社内) 地図 |
所在地 | 西淀川区姫島4-14-2 姫嶋神社内 |
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詳細情報 | 古代、淀川の河口にできたデルタを難波八十島と総称していました。その島の一つにヒメジマの名があったことは、この万葉の歌からでも知ることができます。 |
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施設名 | 中島大水道跡碑 地図 |
所在地 | 西淀川区千舟1-4と姫里3-9の間 |
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詳細情報 | 西淀川区中島大水道は大道村(現在の東淀川区東大道町)の庄屋澤田久佐衛門ほかの首唱により、沿岸村民一致の努力と多大の犠牲のもとに、東淀川区淡路本町2丁目から西淀川区福町までの間、延宝6年(1678)に開削されたと伝えられています。 |
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施設名 | 初代心斎橋・新千舟橋跡 地図 |
所在地 | 西淀川区出来島1-1と2のあいだ |
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詳細情報 | |
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施設名 | 判官松伝承地 地図 |
所在地 | 西淀川区大野2-4 下水処理場正門 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 万葉の歌碑 (大和田住吉神社内) 地図 |
所在地 | 西淀川区大和田5-20-20 住吉神社内 |
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詳細情報 | 大和田の地は万葉の時代に、すでに文人の間に知られていたことが、この歌(右写真)からも察せられます。この歌は万葉集に収められているものですが、詠人は明らかではありません。 |
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施設名 | 佃ふれあい公園 地図 |
所在地 | 西淀川区佃2-1 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 西成大橋親柱の碑 地図 |
所在地 | 西淀川区花川2-1-12 鼻川神社内 |
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詳細情報 | 新淀川の開削は、明治42(1909)に完成しましたが、そこに架けられたのが西成大橋です。この大橋は現淀川大橋の付近にあり、梅田街道に通じ、梅田方面から西淀川区へ入る玄関口でもありました。親柱の碑文には、明治41年12月竣工・延長四百四間参分(約735m)・高欄内法参間 |
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施設名 | かしわの橋・野里の渡し 地図 |
所在地 | 西淀川区野里1-13 |
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詳細情報 | 「野里の渡し」は中津川の渡し場で、明治9年この地に「かしわの橋」が架けられるまで賑わいました。淀川の開削により中津川は埋め立てられ「かしわの橋」は、その使命を終えました。「かしわの橋・野里の渡し跡」の石碑は橋の礎石を利用して今も街角にたたずんでいます。 |
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施設名 | 鉄橋下の地藏さま 地図 |
所在地 | 淀川区塚本1丁目 |
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詳細情報 | JR塚本駅から淀川堤防に向かったところの鉄橋下に、地蔵といくつかの石仏がまつられています。見事におなかの出っぱった人間くさいお顔をした木彫りの立像です。正式名は「国鉄下淀川鉄橋際延命地蔵尊」といい、近年立派なお堂に安置されました。 |
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施設名 | 延命地蔵尊 地図 |
所在地 | 淀川区新北野3-15 |
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詳細情報 | この二体の石のお地蔵さんは、新北野に古くから住んでおられた木下さんが、終戦後淀川に埋まっていたのを偶然見つけ、自宅横に数人の有志の方々と手厚くまつっていたものです。 |
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施設名 | 淀川改修碑 地図 |
所在地 | 淀川区新北野2 |
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詳細情報 | 円稱寺(新北野2丁目)という浄土真宗のお寺に「淀川改修中津村旧址記念碑」と刻まれた石碑が建っています。 |
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施設名 | 佃漁民ゆかりの地 地図 |
所在地 | 西淀川区佃1-18-14 田蓑神社内 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 紀貫之の歌碑 (佃 田蓑神社内) 地図 |
所在地 | 西淀川区佃1-18-14 田蓑神社内 |
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詳細情報 | 平安朝の歌人紀貫之(866〜945年)の詠んだ歌からすると、佃の地は古くには田蓑島と呼んでいたことがわかります。なお、碑のある田蓑神社は、清和天皇の869年(貞観11年)9月、住吉3神を勧請したと社伝にありますが 神社名は明治時代(1868年)に入ってから現在の名にかえら |
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施設名 | 一休和尚の足跡 地図 |
所在地 | 西淀川区御幣島4-14-12 光明寺内 |
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詳細情報 | 一休和尚は室町時代の禅僧で、名は宗純、号は狂雲といい、京に生まれました。1474年(文明6年)に勅命を受けて、一時柴野の大徳寺の住持になったことがおりましたが、その時以外はおおかた放浪の生活に明け暮れていたようです。そんなことからこの地にも暫く足をとめた時期・ |
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施設名 | 古墳と歌碑 (御幣島 光明寺内) 地図 |
所在地 | 西淀川区御幣島4-14-12 光明寺内 |
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詳細情報 | 神功皇后に仕えて功績のあった武内宿弥(たけのうちのすくね)とその子孫の紀定盛の墓だと伝えられていますが、墓石8基のうちのどれがその墓であるかは知ることができません。 ただ、この口碑や平安時代の歌人紀貫之の詠んだ歌などから、この地が単なる海辺の一沼沢地で・ |
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施設名 | 天神社跡碑 地図 |
所在地 | 西淀川区竹島3-7 竹島公園内 |
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詳細情報 | 竹島は古くは竹之町と呼ばれ、天神社は1594年(文禄3年)の勧請と伝えられており、1677年(延宝5年)の加島村検地帳には、25歩(坪)5間四方・天神宮地と記載されています。 |
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施設名 | 塚本如来塚 地図 |
所在地 | 淀川区塚本6-4 |
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詳細情報 | 昔、大念仏宗の僧、法明(ほうみょう)が念仏宗の開祖、教信上人の描いた「阿弥陀如来画像」を譲り受けまつるようにと夢の中でお告げを受けました。そこで法明は如来画像をいただき、自然石に阿弥陀如来の座像を彫り、現在の福島区海老江あたりに塚を築いてまつりました。明治 |
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施設名 | 交通安全地蔵尊 地図 |
所在地 | 淀川区 |
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詳細情報 | 国道176号線の十三大橋北詰め付近は、昔から交通量が多く、事故による死者が絶えなかったそうです。加島の富光寺住職(故松家弘信さん)が、事故をなくすために、交通安全地蔵尊の建立の提言をされ、数多くの方々の尽力により建立されました。そのおかげにより、30年間事故に・ |
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施設名 | 十三大橋 地図 |
所在地 | 淀川区 |
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詳細情報 | 十三の名称の由来のひとつとされている「十三番目の渡し」のあった付近に今の十三大橋(橋長681.24m・幅員20m)があります。 |
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施設名 | 富坂賢太郎歌碑 地図 |
所在地 | 淀川区十三本町1-21 |
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詳細情報 | 長安寺境内にあり、同寺の本尊を詠んだ、「扉をあけて阿弥陀如来もみそなはせうき世の春の花のさかりを」との和歌が刻まれています。賢太郎は十三で古着商を営んだ不遇の歌人ですが、人柄はまことにすばらしく、花田比露志に認められ、一部で高く評価されました。昭和37年大 |
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施設名 | 島左近・道悦の墓 地図 |
所在地 | 淀川区十三東3-7 |
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詳細情報 | 木川墓地にあります。島左近は、石田三成の家来で、関ヶ原の合戦の時、活躍し、戦死しています。その妻の一人と娘たちは、ひそかに当地に隠れ住んだと伝えられています。道悦は、その子孫で中津川(今の淀川)治水の功労者で、慶安3年(1650年)、10年以上も寝食を忘れて働き、・ |
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施設名 | 高橋俊乗博士の碑 地図 |
所在地 | 淀川区十三東1 |
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詳細情報 | 十三東1丁目の善久寺に「高橋俊乗博士之碑」があります。 |
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施設名 | 小方比呂志の句碑 地図 |
所在地 | 淀川区田川北2 |
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詳細情報 | 「登る子に冬木の肌(はだえ)なめらかに」田川北2丁目にある田川北公園内には俳人小方比呂志の句碑があります。 |
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施設名 | 野々宮の力石 地図 |
所在地 | 淀川区野中南1 |
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詳細情報 | 野中南1丁目の野中福祉会館の横に野々宮神社という小さな神社があります。この境内に区内ではここだけにしかない力石が安置されています。江戸のころ、年ごろになった青年たちは神社のお祭りなどで力石を差し上げて見せ、その力を競い合いました。それは人びとの前で十分に・ |
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施設名 | 野中の巳さん 地図 |
所在地 | 淀川区木川西4 |
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詳細情報 | 立森瑞神(たつもりずいじん、木川西4丁目)は蛇を主神とする小さな神社で、地元では野中の巳さんと呼ばれ親しまれています。 |
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施設名 | 神崎橋 地図 |
所在地 | 淀川区 |
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詳細情報 | 淀川区の北西と尼崎市の間に架けられた神崎橋 |
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施設名 | 毛斯倫橋 地図 |
所在地 | 淀川区加島4 |
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詳細情報 | 神崎川をはさんで、加島4丁目と兵庫県尼崎市との間に毛斯倫橋が架かっています。モスリンとは地のやわらかい毛織物で、江戸時代の中頃から輸入され、高級な着物の生地として使われていたものです。 |
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施設名 | 上田秋成の墓 地図 |
所在地 | 淀川区加島4-5 |
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詳細情報 | 「雨月物語」「春雨物語」の作者として、世界的に知られた秋成は、香具波志神社宮司「藤家英」を頼って、安永2年(1773年)から、三年たらず当地に居住していました。 生来偏屈で、国学者としても業績をあげながら、文化6年(1809年)貧乏のどんぞこで亡くなり |
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施設名 | 三国橋 地図 |
所在地 | 淀川区西三国4 |
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詳細情報 | 西三国4丁目の三国橋は「太平記」にも記された「三国の渡し」があった場所として知られています。 |
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施設名 | 鶴の茶屋跡碑 地図 |
所在地 | 北区茶屋町8-6 |
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詳細情報 | 茶屋町という地名に昔の名残をとどめる、明治中期までの大行楽地。大坂三郷の人々の憩いの場所となっていました。豪商松並竹塘が、二羽の鶴を放し飼いにしたのがその名の由来とされています。 |
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施設名 | 佐伯祐三生誕の地 地図 |
所在地 | 北区中津2-5-4 |
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詳細情報 | 偉大な洋画家・佐伯祐三は、大正12年(1923年)にフランスへ渡り、ゴッホ、ブラマンク、ユトリロなどの感化を受けました。わずかな活動期間に400点をこえる作品を残し、30歳で亡くなって光徳寺に眠っています。 |
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施設名 | 森本薫文学碑 地図 |
所在地 | 北区中津2-8 中津公園内 |
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詳細情報 | 戯曲『女の一生』で有名な森本薫は、明治45年(1912年)に現在の中津6丁目に誕生。京大在学中から作品を発表し、卒業後には文学座で戯曲をはじめ翻訳、ラジオドラマ、映画シナリオなど多彩に活動し、夭折しました。 |
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施設名 | 鶯塚(うぐいすづか) 地図 |
所在地 | 北区長柄東2 |
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詳細情報 | 長柄長者の姫の死後、鶯が悲しみの余り後を追うように死んだため作った墓、または、ここに埋葬した孝徳天皇の女官の鶯式部の墓、もう一説では、元旦に鶯が必ず来て春を告げたことに由来すると言われています。 |
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施設名 | 源八渡し跡碑 地図 |
所在地 | 北区天満橋2 |
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詳細情報 | 昭和11年(1936年)に橋が架けられるまで活躍しました。梅や桜の名所もあり、大変賑わったといわれています。与謝蕪村も「源八をわたりて梅のあるじかな」と句を残しています。 |
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施設名 | 大阪市水道発祥の地 地図 |
所在地 | 都島区中野町5-13 毛馬桜之宮公園内 |
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詳細情報 | 沖積地である大阪ではほとんどの井戸水が飲料に適さず、市民は桜宮付近で汲んだ淀川の水を買って飲んでいましたが、明治19年、23年にコレラが流行し、良好な飲料水の提供と消防力強化のために上水道の設置が急務となりました。そこで256万円余の費用と3年余の歳月をかけて、 |
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施設名 | 鵺塚 地図 |
所在地 | 都島区都島本通3-18 |
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詳細情報 | 旧沢上江村(滓上江村とも書く)母恩寺東北の野中に、『平家物語』に見える鵺(ぬえ)を埋めたと伝える塚です。同書によれば、平安末期、近衛天皇を夜ごと悩ませていた怪鳥を源頼政が射落としたところ、頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿で鳴く声は鵺(トラツグミ)に |
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施設名 | 榎並講 地図 |
所在地 | 城東区野江3-5-28 |
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詳細情報 | 旧榎並村(野江、関目、内代)の大峰山まいり有志により、昭和8年7月に建てられたものです。石像の不動明王、役行者は大変立派で威厳があり、いつも手厚く祀られています。現在、榎並講はありませんが、戦前は非常に盛んで、特に13歳になった男の子が村人に連れられて初めて |
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施設名 | 渡辺綱・駒つなぎの樟 地図 |
所在地 | 都島区善源寺町1-11 |
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詳細情報 | 当地は明治42年(1909)まで旧善源寺村の産土神社が鎮座したところで、この樟の大樹は同社の境内にあったものです。この樹は平安時代の中ごろ、源頼光が社を創設する際に植えたもので、頼光の家臣の渡辺綱が参詣するとき馬をつないだとの伝承があるところから「渡辺綱・駒つ |
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施設名 | 農業用水門 地図 |
所在地 | 都島区都島北通1-1 |
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詳細情報 | かつて都島区一帯には一面の田園が広がり、井路川(いじがわ)と呼ばれる農業用水路が淀川から寝屋川方向に幾筋も流れていました。水門は用水の取入れや排水、洪水の防御など、必要に応じて開閉し、水路の水の流出入を調節するための施設です。 この水門は、都島区がかつて |
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施設名 | 榎並猿楽発祥の地・榎並城跡伝承地の碑 地図 |
所在地 | 城東区野江4丁目1番 榎並小学校東門前 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 七曲り 地図 |
所在地 | 旭区高殿4丁目 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 毛馬閘門・洗堰・淀川改修紀功碑 地図 |
所在地 | 北区長柄東3-3 |
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詳細情報 | 明治の淀川改修工事では、橋の鉄橋化や長柄運河の開さくなど一連の工事が進められました。旧淀川(大川)に流下する水量の調節のために設けられたのが毛馬の洗堰で、船の航行の水位調節のために設けられたのが毛馬の閘門です。昭和49年の新水門完成と昭和51年の新閘門開通を機 |
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施設名 | 長柄橋 地図 |
所在地 | 東淀川区柴島1 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 白鷹社 地図 |
所在地 | 淀川区西中島2 |
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詳細情報 | 西中島2丁目の淀川堤防のすぐそばに、白鷹社というお社がまつられています。約8畳ほどの敷地の中、門扉から社までは藤棚が設けられ、春には藤の花が見事に咲くそうです。昭和10年ごろ、伏見稲荷大社から白鷹さんという神様がこの地に来られるとき、巳さんもお供して一緒に来 |
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施設名 | 柴島城址 地図 |
所在地 | 東淀川区柴島2-19 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 毛馬の水門・閘門 地図 |
所在地 | 都島区毛馬町3-8 |
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詳細情報 | 明治18年(1885)の大水害を機に淀川の大改修が行われ、同43年に新淀川が開削されました。このとき毛馬で新淀川と分岐する旧淀川の水量調節と舟運の便のために建設されたのが毛馬洗堰と閘門です。洗堰は川の水が常にその上を流れ越す程度の高さに作った堰、閘門は水位の高低 |
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施設名 | 蕪村の生誕地・句碑 地図 |
所在地 | 都島区毛馬町3-7 毛馬堤防上 |
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詳細情報 | 江戸後期の俳壇を革新し南宗画を開拓した与謝蕪村は、享保元年(1716)、摂津国東成郡毛馬村(現都島区毛馬町)に生まれました。本姓谷口、のちに与謝。20歳のころ江戸に出て早野巴人に俳諧を学び、東国から丹後国与謝地方を遊歴後、43歳で画家として京都に定住し、詩情あふ |
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施設名 | 城北公園・菖蒲園 地図 |
所在地 | 旭区生江3丁目 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 蒲生公園 地図 |
所在地 | 城東区中央3-8 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 鯰江北公園<サクラ公園> 地図 |
所在地 | 城東区今福西5-13 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 城北川遊歩道 地図 |
所在地 | 城東区関目−古市−今福西−今福東 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 南関目公園<どんぐり広場> 地図 |
所在地 | 城東区関目2-4 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 元大阪国技館前の古い町並み<元相撲茶屋> 地図 |
所在地 | 城東区古市2丁目2・3番 |
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詳細情報 | 現在、国技館跡地は住宅団地となり、わずかに残っていた相撲茶屋跡の家並みも現在はなくなっています。 |
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施設名 | 関目発祥之地の碑 地図 |
所在地 | 城東区成育5-15-20 |
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詳細情報 | 関目神社の境内に、この碑があります。関目という地名は、古くは榎並荘の時代からあったもので、この地に見張り所(目で見る関所)があったことから起ったといわれています。 |
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施設名 | 関目神社(須佐之男尊神社) 地図 |
所在地 | 成育5-15-20 |
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詳細情報 | 創建年代は不明ですが、天正8年(1580年)豊臣秀吉が大阪城築城の際、この地が大阪の鬼門にあたるということから鬼門鎮護の神として毘沙門天(びしゃもんてん)、牛頭天王(ごずてんのう)を勧請し、小祠を建立したのが起源といわれています。現在の神殿は、昭和52年10月に建て・ |
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施設名 | 菫之荘土地区画整理事業完成の記念碑 地図 |
所在地 | 城東区古市2-6 古市中公園内 |
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詳細情報 | 「宅地としての利用」を増進するため大正8年の旧都市計画法により区画整理の道が開かれました。しかし市域拡張の際、道路・公園・上下水道が、未整備のままの乱開発が進められ、それを反省するべく、城東区においては、昭和2年11月に菫之荘土地区画整理組合が設立。約150ha・ |
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施設名 | 森小路遺跡碑 地図 |
所在地 | 旭区新森4丁目・新森中央公園内 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 京街道の碑 地図 |
所在地 | 旭区森小路1丁目 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 天然記念物大楠(宝龍寺内) 地図 |
所在地 | 旭区今市1丁目 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 京街道の碑 地図 |
所在地 | 旭区今市1丁目 |
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詳細情報 | |
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施設名 | タイムストーン400 地図 |
所在地 | 淀川区 |
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詳細情報 | JR新大阪駅の南側駐車場にニョッキリと建つ「タイムストーン400」があります。これは大阪城築城400年を記念して建てられたもので、石を20個積み重ねた高さ16.5mのモニュメントと、そばには積み忘れたような1個の石が配置されています。この一帯は駐車場なので、電車やバスを |
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施設名 | 摂津県・豊崎県県庁所在地跡 地図 |
所在地 | 東淀川区東中島5-27 崇禅寺内 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 春日神社の跡 地図 |
所在地 | 淀川区宮原1 |
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詳細情報 | 宮原1丁目のビルの谷間に「春日神社之址(あと)」と刻んだ石碑と三つの小さな社が安置されています。 |
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施設名 | 蒲田神社 地図 |
所在地 | 淀川区東三国2-18 |
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詳細情報 | 室町時代(1338〜1573年)に地元の有力者佛生院又三郎が、「室の明神」の分霊をいただいて、村の鎮守として創建した神社です。この付近は、蒲の生い茂る田園情緒豊かな所でしたから、明治42年からこの社名になりました。今も境内には大きな楠がありとても気持ちのいいお宮さん |
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施設名 | 阪急淡路駅 地図 |
所在地 | 東淀川区東淡路4 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 中島大水道跡 地図 |
所在地 | 東淀川区西淡路5 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 城東貨物線赤川鉄橋 地図 |
所在地 | |
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詳細情報 | |
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施設名 | 一柳家の土塀と道標 地図 |
所在地 | 東淀川区菅原1-16-3 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 赤川廃寺跡碑 地図 |
所在地 | 旭区赤川4丁目・淀川堤防上 |
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詳細情報 | |
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施設名 | ワンド 地図 |
所在地 | 淀川左岸河川敷 菅原城北大橋周辺 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 千人つか 地図 |
所在地 | 旭区生江3丁目・淀川堤防上 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 菅原城北大橋 地図 |
所在地 | 旭区 |
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詳細情報 | 大阪市の指定景観形成物 |
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施設名 | 菅原城北大橋 地図 |
所在地 | 東淀川区豊里1 |
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詳細情報 | |
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施設名 | かぶと公園 地図 |
所在地 | 東淀川区豊新4-10 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 藻井生々堂 地図 |
所在地 | 淀川区十八条3-1 |
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詳細情報 | 当堂が秘伝とする「十八条血の道薬」は、産前産後の妙薬として知られています。この薬は、永禄3年(1560年)、24代藻井介光が調剤、施薬したもので、介光の先祖藤原仲光は、主君源満仲の息子美女丸を守るため、わが子幸寿丸を殺した「身代わり説話」が残っています。この話は・ |
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施設名 | 円宗寺・親鸞像 地図 |
所在地 | 淀川区十八条2 |
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詳細情報 | 円宗寺(十八条2丁目)の親鸞上人像は昭和59年10月に建立されました。 |
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施設名 | 平田の渡し跡碑 地図 |
所在地 | 旭区太子橋1丁目・豊里大橋南詰淀川堤防上 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 豊里大橋 地図 |
所在地 | 東淀川区豊里3 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 平田の渡し跡 地図 |
所在地 | 東淀川区豊里3 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 乳牛牧跡 地図 |
所在地 | |
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詳細情報 | |
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施設名 | 逆巻地蔵 地図 |
所在地 | 東淀川区大桐5-4 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 三千樋 地図 |
所在地 | 東淀川区南江口3 |
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詳細情報 | |
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施設名 | 昭和山 地図 |
所在地 | 大正区千島2-7 |
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詳細情報 | 千島公園の中心、港の見える丘は、標高33m。その頂上からは、六甲の山並みや港大橋、なみはや大橋・千歳橋が手に取るように眺められ、その恵まれた自然は区民の憩いの場所となっています。万国博関連工事で建設が急がれていた地下鉄工事の残土など、約170万m3(ダンプカー57・ |
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施設名 | 中村勘助の碑 地図 |
所在地 | 大正区三軒家東2-7 |
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詳細情報 | 中村勘助は慶長15年(1610)木津に移住、姫島(今の三軒家)を開発し、また木津川を浚渫(しゅんせつ)しました。大阪の水利のために尽くした功績を讃えて、大正6年12月上八坂神社境内にこの碑が建てられました。 |
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施設名 | 大正橋 地図 |
所在地 | 大正区 |
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詳細情報 | 昭和49年3月、現在の新橋が完成。大正区の北の出入り口に位置し車の往来も多いです。あまり知られていませんが、橋の欄干は五線譜となっておりベートーベン作曲の第九の音符が、歩道にはメトロノームとピアノの鍵盤が刻まれています。 |
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